第三章 中華街の影刃族
1
練習終了後、龍は武道館二階にある部室の外に立って牙門を待っていた。ロッキーと至には事情を話し、二人は先に帰って行った。
そわそわしながら辺りを見回していると、中から翔が出てきた。
「ゲッ」
悪いことをしているわけでもないのに目を逸らす。
そのまま行ってしまうかに思えたが、龍の姿に気づいた翔は足を止めた。
「……そこで何をしている」
「べ、別に、何も」
龍が彼に話しかけられるのはこれが初めてだった。龍だけではない、沢渡や来明はともかく、翔と会話をする部員など、ほとんどいないと言ってよかった。
剣道の腕前は一番だが、トニーの言うところの、協調性のない彼は部内で浮いた存在であり、いつも一人で黙々と稽古をしている。そんな翔がこの下級生に自ら話しかけたのである。
「用がないなら早く帰れ」
「はあ? なんでそんなこと命令されなきゃならないんだよ、大きなお世話だ」
相手が上級生だということも忘れて、タメ口で反論する龍だが、翔は「生意気な一年だ」とむかつくような態度は見せず、むしろ愉快そうに笑って立ち去った。
「……変なヤツ。わざわざ制服みたいなの着ちゃってさ」
遠ざかる背中に悪態をついてみる。制服は定めず、服装自由というこの学校で、白いワイシャツの下に真っ赤なTシャツ、黒い学生ズボンを履いた翔の真意は誰にもわからない、彼の尊大な祖父以外は。
そこに待ち人がようやく登場した。
「お待たせしました」
「あ……ああ、いえ」
ギョッとする龍、牙門は白いチャイナ服に身を包んでいた。普段着も白だと聞いていたが、まさか民族衣装とは。
(制服もどきとかチャイナとか、なんなんだよ、こいつら)
しかしながら、姿形のよい牙門のこと、そんなファッションも特異ではなく、彼の美貌を引き立てている。すらりとした長身で落ち着きのある大人びた姿はとても自分と一歳違いとは思えない。
この差は何なのだと、面白くない龍はリュックを肩にかけ直すと、ジーンズのポケットに両手を突っ込み、ふてくされのポーズを取った。
だんだん日が長くなる季節、夕焼けは校舎の向こうに続く街並みをまだ橙色に染め続けている。舗道に二つの影がゆらゆらと伸びてはゆっくりと進んだ。
「春日君」
「あ、はい」
「今日の稽古で君は私に負けた。実力に差があるとは、私は思ってはいません。君の身軽な動き、特に足捌きの敏捷さは素晴らしい。でも、私にあって君にはないもの、それが勝負を決めたのでしょう」
静かに語る牙門、立ち止った龍は「オレにないものって?」と問い質した。
「背負うものです」
牙門はいつになく強い口調になった。
「私の故郷は中国の雲南省というところにあります。小さな民族がそれぞれ集落を作っている場所で、その生活は決して豊かではありません。私がこの日本で得るもの、それが故郷に幸せをもたらすはず……みんなの期待を私は背負っている。それが私の気迫の源、勝負を左右するのは、最終的には本人の気合いだと思います」
「気合い……か」
たしかに、あの一瞬の怯みは気合い、意気込みの違いだったかもしれない。牙門は期待を背負って挑んでいるのだ、剣道だけではなく、すべてのことに。
「……でもそれ、何だかしんどそうだな」
ボソッとつぶやいた龍の言葉に、牙門は弾かれたようにこちらを見た。驚きでも怒りでもない、なんとも言えないその表情に、龍は慌てて弁明した。
「あ、オレ、気に障ること言ったかな、すいません」
「そんなことはない、君は正直だ」
牙門はしがらみから解放されたかのように、明るい声で続けた。
「こんな話を誰かにしたのは初めてだけど、君になら話せると思った。聞いてもらえて嬉しかった」
「そ、それはどうも」
最寄り駅に着くと、龍は上りのホーム、牙門は下りホームに分かれる。別れ際、
「牙門さ……秋先輩、さようなら」
そんな龍の呼びかけに、
「牙門でいいよ、私も君を龍と呼ばせてもらう。君とは先輩後輩ではなく、対等な仲間でいたいからね」
そう言って彼は微笑みを浮かべた。
2
横浜中華街は平日にもかかわらず、大勢の観光客で賑わっていた。
午後七時、朱に黄色、緑の極彩色に彩られた街には料理の匂いが充満し、空腹を刺激された人々が店の前で立ち止まったり、上機嫌で笑ったりしながら、ごてごてとした通りをさらに混雑させている。
真っ直ぐ歩くのもままならない、そんな人波を避けるようにして、チャイナ服姿の男がひとつ裏の道に入り込み、小さな店の奥に吸い込まれていった。
彼が扉を開けると、店主が声をかけた。
「ああ、お帰り」
「ただいま。何か手伝いましょうか?」
「いいよ。暇で、暇で、開店休業だ」
力なく笑うのは牙門の父の弟にあたる秋利悌(しゅう りてい)、十年前からこの場所で中華料理店を夫婦で営んでいる。子供がいないため、同居する甥の牙門を大層可愛がっていた。
「そうだ、向こうから便りが届いたぞ」
「えっ」
「例の件の催促かもな」
利悌は探るような目で甥の顔を見た。
「そうかもしれません」
例の件──牙門はただ日本で学ぶためだけに来日した留学生ではない。特別な使命を帯びており、そんな彼をサポートするために利悌夫妻はここに住み続けているのだ。
夕食を済ませ、自室に入った牙門は机の上に置かれた手紙の封を切った。
差出人は中国人の父に嫁いだ日本人の母・まなみで、その住所は中国雲南省大里からさらに山奥へ入った場所──
中国は文化・習慣の違う多民族国家だ。中でも雲南省は少数民族の集まった地域で、そのうちのひとつ──優れた戦闘能力を持ちながら、陽の当たることはなく常に影のような民族──今でも彼の地に細々と住み続ける影刃族という民族の末裔の一人が牙門だったのである。
影刃族には幾つかの言い伝えが残っており、中でも『輝蹟の剣』の話はどんなに小さな子供でも知っているほどの、未だ語り継がれている伝説だった。
影刃族はもともと大都、現在の北京の辺りを居住区としていた。武術に優れた民族で、農作物に不自由することもなく生活は豊かだったらしい。
そんな村で、誰がいつ作ったのかはさだかでないが、四本の剣を一族のシンボルとして掲げるようになり、それらが『輝蹟の剣』と呼ばれる宝剣であった。
古代中国の陰陽五行思想や四柱推命学に登場する、四方位を守護する四神獣にあやかって四本の剣には四神獣の名がつけられた。押し寄せる敵に対して、すべての方角から村を守るといった意味合いもあったようだ。
ある時、彼らの村が大妖怪に襲われたのだが──あくまでも伝説である──その退治に使われたのがシンボルの剣だった。剣は単なる飾りではなく、妖怪を倒すことのできる不思議な力を秘めていたという設定だ。
ところが、中国が元と呼ばれた時代に、時の権力者フビライ=ハンに仕え、国家統一の戦いに参加した影刃族は混乱の最中に大切な剣を失ってしまった。やがて大都を追われて南下、たどり着いた雲南の地に住み着き、以来そこに定住しているというわけだ。
さらに、日本史で習うところの、鎌倉時代に起きた元寇、あるいは蒙古襲来と呼ばれる歴史上の出来事になるが、元と高麗の軍が日本の対馬や博多を襲撃した時、その軍に輝蹟の剣を持ち出した影刃族の者が加わっており、四本のうちの三本までが日本軍の手に渡ったと村の記録に残っているのだ。
失った輝蹟の剣は八百年近く経った今でも日本の、それも東京近郊にあるらしい。最近になってそんな情報を得た彼らは剣を取り戻すべく、仲間を送り込んだ。
関東地区に居住し、剣の情報が集められそうな仕事に就く。牙門の場合は剣道部に所属して剣道に関わる者たちとの接触を計り、そこから糸を手繰るのが目的だった。
かつては栄華を極めたものの、その後は日陰で耐え忍ぶような生活を送ってきた影刃族の人々、急激に変化する時代の流れにも乗れず、国家の発展の恩恵にも与かれない彼らにとって、輝蹟の剣はいわば心の拠り所になった。四本全部を揃えれば一族に幸せな未来を呼び込むことができると考えるようになったのである。
以前はその思いに同調し、日本へ渡る使命を受けた牙門だが、それが虚しい考えであることくらい、今では充分承知していた。剣を揃えたところで田舎の村の実情が変わるはずなどない。時代に取り残された人々の世迷言でしかないのだ。
それからもうひとつ、牙門には剣探しに積極的になれない理由があった。万が一、三本の剣が見つかったとしたら、自分は即、中国へ連れ戻されるだろう。
彼は常聖学園に未練がある。出会ったばかりの龍たちと一緒に練習を続けたい、大会にも出たい、ずっとここにいたい……
「さて、何と返事したものか……」
溜め息をつく牙門、剣の在り処の調査は進んでいるのかどうか、周囲から催促されて母はペンを取ったのであろう。その心中を察すると辛く、また、このまま知らぬふりを決め込むわけにもいかない。
彼はまだ気づいていなかった。自分のごく身近なところに探し求める『輝蹟の剣』が存在していることを──
……❺へ続く