MY MEMORANDUM

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パールの変調 ❸

    第二章

 オレが正面玄関へ走ったのは救急車と警察を迎えるためだけではない。この後に及んで表へ出ようとする不審な輩をブロックするためで、先生はこれが病気や事故ではないと察したと承知したからだ。

 この建物の出入り口はここだけで、もちろん非常口もあるけれど、通常は施錠されているから外来者がほいほいと開けられるものではない。玄関を押さえておけば取り逃がす可能性はないってことだ。

 受付で使われていた長机には芳名帳とプログラムが散らかっている。しばらくして、会場を管理する中年男性が事務所の方から二人ほど出てきたが、幸いにしてブロックの機会はないまま、待ち人を出迎えることになった。

 先に駆けつけたのは救急隊員で、事務所の一人の案内で中へと向かう。次に白黒パトカーが到着、続いて停車した黒塗りの車から見覚えのある顔が現れた。

「警察です。現場はどこですか?」と、緊迫した口調で慌しくしゃべる四十代男性と視線が絡み合ったため、オレは「どうも」と会釈をしたが、そのとたんに彼の表情が変わった。

「キ、キミはあのときの……」

 さすがに「オカマ探偵の助手をしているイケメンワトソン」とは口にしなかったが、困惑しているのは明らかだった。

 登場したのは警視庁捜査一課の、オカマが大学の教授なんてとんでもないと考える生真面目刑事こと鴨下警部補だ。

 以前、都内で起きた殺人事件に関して、現場に居合わせたウチの先生が警察を出し抜いて──出し抜いて、は語弊があるか──彼らが検挙できなかった犯人を見事に指摘したために、鴨下警部補は先生の存在をありがたくも疎ましく思っているようだ。

「キミがいるということは、例の先生もここに来ているのかい?」

「はい。この会場でウチの大学の邦楽サークルが演奏会を行なっていたんです」

 あの出しゃばりオカマがいるのかと、警部補はますますうんざりした様子を見せたが、それでも平静を装い「そ、そうか。では、とにかく現場に案内してもらいましょうか」と、残っていた事務所の男性の方を見やった。頷いた彼がこわばった表情で警察関係者たちを先導する。数名の警官が玄関付近に配備されたので、ここは彼らに任せてオレもあとに続いた。

 舞台はさっきと同じ光景のまま、人々は同じ位置で固まっている。島村譲も自分の椅子に戻り、彼の背後には楽屋にいたか、あるいは裏方を担当していただろう他の部員たちが不安そうな顔をして立ち並んでいた。

 やって来たのが鴨下警部補だとわかると、先生は「あら、刑事さん。お久しぶり」と親しげに声をかけ、そのセリフに警部補は苦虫を噛み潰したような顔をして「あなたにそう言われると、新宿二丁目に迷い込んだ気分になりますよ」と答えた。

「まあ、刑事さんったら、そっちの趣味があるのかしら?」

「時々訪れます。何しろ怪しげな街で、犯罪者が入り込んでいることも多い。つまり個人的な趣味ではなく、あくまでも捜査の上での訪問、聞・き・込・み、ですからね!」

「聞き込み」の部分を強調したあと、警部補は応急措置を行っている救急隊員を見やったが、既に手遅れといった様子だった。

 仏になってしまったキャバ嬢の姿に、人々の溜め息が漏れる。遺体にとりすがって泣く哲の様子は憐れで、彼が摩耶に惚れていたのは誰の目にも明らかだった。

 ここからは変死を担当する警察の出番だ。泣きわめく男をなだめて脇へ押しやったあと、警部補が現場検証を始めた鑑識員らに、周囲に聞こえないよう注意しながら状況を尋ねたが、地獄耳のオレと隣にいた先生だけにはバッチリ聞こえた。

「死因は特定できそうか?」

「恐らく毒物による中毒死ではないかと思われます。皮膚の紅斑などからして砒素、亜砒酸の可能性が高いです」

 現場の写真撮影が終わり、摩耶の遺体が運び出される。観客たちはそれぞれ簡単な聴取を受けて帰され、その場に残ったのは三曲の部員たちと、このサークルの顧問且つ、客席から舞台を見ていた証人でもあると、半ば強引に居残った先生とオレだけになった。

 内心どう思っているのかは知らないが、現場保存をしてくれた先生に対してバカ丁寧に礼を述べた警部補はそのあと、詳しい事情を訊きたいからと、関係者全員に会議室へ向かうよう命じ、ぞろぞろと人々の移動が始まった。

 舞台の袖を抜けてすぐに広さ二十畳ほどの部屋があり、ここが出演者たちの控え室いわば楽屋で、さらに廊下を進むと、会議室と書かれたプレートを掲げたドアが二つ、その奥が事務所という造りだ。グループの会合などに有償で貸し出すための会議室は二部屋あるわけだが、今日はどちらも空いていたので、手前を事情聴取に、奥を自分たち警察の控え室に使わせてもらうよう手配したらしい。

 会議室の内部はごくありふれたオフィス空間で、長机で作られた長方形を取り囲むようにワーキングチェアが配置されている。出入り口付近を陣取った警察陣に促された三十名ほどの部員たちは続々と奥へ入ったが、なにぶん狭いので机を壁際に押しやり、足りない分の椅子が隣の部屋から運び込まれた。オレたちは邪魔にならないようにと出入り口の脇に並んで立ったが、この位置は全員の様子を見るのに適しているのはいうまでもない。

「このたびは御愁傷様です。お疲れのところ大変申し訳ありませんが、しばらくの間おつき合い願います。既に御承知のように、こちらのサークルに所属する杉本摩耶さんがさきほど亡くなりました。死因は毒物の服毒による中毒、はっきりしたことは検死の結果を待たなければなりませんが、恐らく砒素中毒だと思われます」

 顔色を変えて動揺する部員たちのざわめきが部屋の空気を不穏なものにする。二十歳そこそこの若さで、それも見るからに健康そうな女が心臓発作などで突然死する可能性は極めて低いけれど、まったく有り得ないことでもない。だが、中毒死という結果はわずかな可能性を否定したのだ。

「状況からみて、演奏が始まる前か演奏中に何らかの形で服毒したと思われますが、なぜ彼女がそのような行為をおこなったのか。理由は三つ考えられます。一つめは自殺の場合。晴れ舞台で自殺を行なう人なんて常識的にはいないと思いますが、一応考慮しておきます。二つめは誤って毒物を口にした場合。毒の種類を特定しないと何とも申せませんが、ネズミなどの有害動物を駆除するのに使われる薬物を間違えて食べてしまった、そういうことです。三つめは……」

 警部補はもったいぶった言い回しをしているが、三つめは言うまでもなく他殺の場合だ。そして、その可能性がいちばん高いということは誰もが承知している。吸殻の誤飲をやらかしかねない幼児じゃあるまいし、いくらバカな女子大生でも、ネズミやゴキブリの駆除剤を食べるほどマヌケじゃないだろう。他殺、それも演奏会の最中に毒を盛ったとなれば、他所からの侵入者の仕業とは考えにくい。つまり内部犯・サークル内の誰かが犯人という結論が導き出されるからこそ、この場の雰囲気が暗く重苦しいのだ。

 摩耶の死を悼むという感情よりも、毒殺魔が潜んでいるかもしれない恐怖が彼らを支配し、疑心暗鬼になっている。チラチラと交わされる視線が細身の刃のようで、いたたまれない感じがした。

「とりあえず正確な結果の報告があるまで、どなたか代表して私の質問に答えてくださいますか? まずは今日の予定、今朝からの動きと、杉本さんの行動を教えてください」

 この中の代表者となれば当然、部長の島村譲にお鉢が回る。彼は青ざめた顔で、それでもしっかりした口調で説明を始めた。

「いちばんに到着したのは部長のボクで午前八時半です。全員会場入りしたのは十時で、そこから準備と前リハーサルを行い、午後三時からは本番に備えての支度にとりかかりました。演奏会開始は四時半で、終了予定は七時、片づけが終わり次第、朝日屋旅館に移動して打ち上げという計画でした」

 朝日屋というのはこの近所にあり、主に東京見物の修学旅行生を対象にした旅館で、そこの宴会場でお疲れさまの夜通しコンパを行ったあと、そのまま宿泊するというスケジュールだったようだ。

「杉本さんはみんなより少し遅れてきました、九時五十分ぐらいだったかな。全員揃ったところで、ボクが今日一日の予定とそれぞれの割り当てを確認して、それからは各自の仕事に入りました」

 執行部において箏パートのリーダーを担っている摩耶はさっそく楽器の手配を始め、箏の調絃(チューニングのことだ)を行なっては使われる順に並べるという作業をしていたとのことだった。

 楽器や立箏台を運ぶ係、アナウンス係などを担当している者は控え室と舞台を行ったり来たりするのに対して、調絃係は──箏担当は摩耶、三絃のリーダーは林田愛美(はやしだ まなみ)──自分の出番以外、ほとんど控え室にいるという状態だったという。

「ボクも責任者として、あっちこっちの状況を見回ったり、連絡をとったりしていたものですから控え室にいる時間は少なくて、杉本さんの様子をずっと見ていたわけじゃないんですけれど、これといって変わったところもなく、いつもと同じように見えましたけど」

 そこで口を挟んだのは受付をしていた一回生三人組のうちの文学部だった。おしゃべりなだけあって、自分の持っている情報を公開せずにはいられないらしい。

「せっかくの演奏会なのに髪形がキマらないって、とっても不機嫌でしたよ。男の先輩たちにはわからないでしょうけれど」

「そうだったんだ」と、譲が頼りない相槌を打つと、後輩たちから次々に情報が飛び出した。

「それと、ダイエット中だからお弁当はいらないって言われました」

 昼食用に用意された仕出し弁当を配る係の二回生男子の証言だ。余った分を貰って食べていたら、本人がコンビニに行くと言って出かけたので、おかしな人だと思ったという。

「いや、何でおかしいと思ったかってのは、弁当がいらないなら朝イチの注文する時点で言ってくれたら、キャンセルできたわけじゃないですか。それに、ここからいちばん近い場所のコンビニにだってけっこう遠いんですよ。来るときに寄って買ってくれば、あとからわざわざ行かなくてもいいのにって」

「実際に杉本さんはコンビニに出向いたのですか?」

 鴨下警部補が口を挟むと、みんな顔を見合わせて頷いた。会場入りしてから現在まで、建物の外に出たのはその時の摩耶一人だけで、コンビニのレジ袋を提げているのを見た者もあり、また、サンドイッチを食べながら調絃しているところを見た者もあった。

「そのサンドイッチを食べていたのは何時頃ですか? ああ、二時ですか。皆さんが弁当を食べてから一時間後ぐらいだったと」

 そこで先生が初めて口を開いた。

「ちょっと質問してよろしいかしら?」

 警部補は一瞬イヤな顔をしたが、すぐに「どうぞ」と答えた。

「お弁当が控え室に届いたのは何時頃だったか覚えている?」

 弁当係の学生は首をかしげながら、

「あれはたしか……十二時前ぐらいだったと思います。事務所の方から連絡が入りましたから、そちらにもたしかめてもらえれば」

 納得したように頷いた先生はそれからタイムスケジュールを管理する役割の学生に、十二時頃は誰がリハーサルをやっていたかを確認したが、それは問題の『真珠の雫』組だったとわかった。

「ありがとう。アタシの方はこれで済んだわ」

 軽く咳払いをした警部補は「えー、それでは他に何か気づいたことのある方はいらっしゃいますか」と尋ねた。部をとりまとめる立場として忙しい身の譲よりも、他の連中に訊いた方が情報は集まると判断したのだろう、また幾つかの証言が出てきた。

「お弁当を食べないのはダイエットしているからって話でしたけど、お菓子はけっこう食べていましたよ。摩耶先輩が一、二年のときにお世話になったOBの先輩におねだりして贈ってもらったんです。ブランドまで指定していましたよ、それも高いものばっかり」

 そういえば酒樽やらビールケースが受付の脇に積んであったのを思い出した。あれらもOBたちからの演奏会開催祝いの品で、打ち上げの際にふるまわれる予定だったらしい。

「ホワイトゲイブルズのクッキーとか、ノディバのチョコとか、直営店から冷凍の宅配便で送られてきました。けっこうたくさん届いたわよねぇ、ワタシたちのお小遣いじゃ買えない高級品だから、この機会にたくさんいただいちゃおって張り切ってました」

 ダイエットという理由が嘘なのはバレバレだ。菓子食べたさに弁当を控えたのなら、サンドイッチ食べるのもやめろよ。

 それにしても摩耶というのはかなり口やかましい女だったらしく、出入り口が狭いだの、楽器運び担当の一年男子の動作が鈍いだのと文句を言いまくっていたとの発言もあったが、これらの内容から想像できる人物像は勝気でワガママ、強引な性格であり、自殺を図るようにはとうてい思えない。

 だいたい、それ相当の悩みや理由があるから自殺という行為に走るのであって、目下の悩みは髪形がキマらないこととダイエット。そんなヤツが自殺するなんて論外。他殺説に軍配が上がるのも当然だし、その性格と派手なルックスから、敵を作りやすいタイプともいえる。誰かの恨みを買っている、すなわち狙われる可能性は大だ。

 だが、そこでオレは重大な点を忘れていたことに気づいた。演奏中に摩耶がとった奇妙な行動──この場にいる人々の中で、問題のシーンを目撃したのはオレだけだ。先生は目を閉じていたし、いちばん後ろにいる十七絃奏者の仕草なんて、客席の、それも前方にいなければ見えるはずもないからだ。

 問題のシーンでは飴か何かを口にしたように見えたけれど、まさか自殺するつもりで、あの瞬間に毒を飲むなんて通常は考えられない。あれが何だったのか、はっきりさせておく必要がある。

 さっそく警部補に話そうとしたその時、部屋の片隅でうなだれていた哲がいきなり立ち上がり、指をさして怒鳴った。

「おまえだっ! おまえが摩耶を殺したんだ。さあ、白状しろ!」

 他殺の可能性が濃厚とわかり、思い当たるふしがあったらしい。これでオレは話を切り出すタイミングを逃してしまった。

                                ……❹に続く