MY MEMORANDUM

オリジナル小説を公開するブログです

キセキのツルギ ❷

    第二章

 龍と団兵の一対一の稽古とは違い、それがまだ基本中の基本だとしても、ロッキーたちが稽古を始めただけで、道場内には活気があふれるようになった。

 ロッキーは白い稽古着に藍色の袴を、牙門はホワイト・プリンスだけあって白の上下をあつらえた。

 稽古着も袴も藍色がすっかり退色して水色になっている龍は新品に身をつつんだ彼らをうらやましそうに見て、団兵におねだりを始めた。

「いいなあ~。じいちゃん、オレにも新しいの買ってよ」

「たわけが。長く、大切に使ってこそ、物の値打ちは出てくるものじゃ」

「また、理屈言ってごまかすんだから」

 竹刀の持ち方から素振り、足さばきと、ていねいに教える団兵の指導のかいがあって、新入りの二人はメキメキと上達していった。

 特に牙門はエイ族に伝わるという独特の武術を会得しているため、ほかの武道をやらせても筋がよく、即戦力として期待がかけられていた。

 彼らが入門して二週間ほど経ったある日、今日も稽古に励んでいた龍たちはしばらく休憩しようと防具をはずし、道場の隅に座った。

「二人ともすげえうまくなったよな。これなら試合に出場できるんじゃねえか?」

「ホントに? ボクも出られると思う?」

 ロッキーが念を押す。

「大丈夫さ。ま、その前にあと二人を見つけなきゃならねえけど」

 個人戦の枠は限られているから、ロッキーたちを出場させるためには団体戦で出るしかない。

「見つけるといえば、伝説の剣探しはあれからどうなったの?」

 ロッキーが牙門に問いかけると、彼は首を横に振った。

「残念ながら何の進展もありません。父も暇をみては探しているのですが」

 春日家の祖先の場合、博多からたまたま神奈川に移り住んだので剣を発見するに至ったが、残りの二本のありかは福岡県内、範囲を広げて九州全土という可能性が高い。

 縁あって関わったのだから、剣探しを手伝いたいのはやまやまだが、それが九州となると気が遠くなりそうだ。

「ユーのパパはどういう方法で探してるの?」

「ネットで呼びかけたり、会社の支店の方の協力を仰いだりしていますが、何の手がかりもなくて」

 嘆息した龍は天井を仰いだ。

「やっぱ九州なのかなぁ」

「いえ、それなんですが」

 牙門が青竜剣発見の報告をしたところ、長曰く「一本見つかればあとの二本も引き寄せられてくる」と。

「なに、その理屈」

 引き寄せられて見つかるのなら、中国に残っている白虎剣の元に、とっくに集まっているはずじゃないか。

 わけのわからない、矛盾したことを言ってると龍は思った。

 しばらくして表をバタバタと走る音が聞こたかと思うと、至が道場に飛び込んできた。

「失礼しまーすっ」

 よほど急いで走ってきたらしく、至はハアハアと息を切らしながら、龍たちの前でペタンと座り込んでしまった。

「ドクター、何あわててんだよ」

「あー、疲れた。そうそう、キセキのツルギに関する大ニュースですよ!」

「なんだそれ?」

「だから、牙門さんたちが探している剣じゃないですか」

 妖怪を倒したという話の真偽はともかく、奇跡を起こしたという伝説の剣に対して、至が勝手に命名したのである。

 それも『奇跡』と当たり前につけてはつまらないから『輝蹟』という当て字まで考え出していたのには、みんなで恐れ入った。

「『輝蹟の剣』か。なかなかカッコイイじゃん。で、何がニュースなの?」

「この前、ボクのオジさんに剣の話をしたんですよ」

 至の自宅近所に住む彼の伯父は骨董に興味があるとかで、さりげなく話を持ちかけたところ、今日になって驚きの情報をもたらしてくれたというのだ。

 ついさっき季村家を訪ねてきた伯父が至に語った話──質屋と骨董屋を兼ねた店を経営している知り合いが店のお得意さんから連絡を受けて、それらしい剣の鑑定を頼まれ、その家に出向くとのこと。話を聞いてすぐ、至はここへ飛んできたのだ。

「その骨董屋さんはまだ剣を見ていないんですけど、中身は木刀だって話したようです。これって、もしかして可能性なくありませんか?」

「そのようですね」

 ようやく入った情報に、牙門は嬉しそうである。

「それで、剣を持ってるお客ってのは誰なんだよ?」

「聞いて驚かないでくださいよ」

 至はひと息入れると、龍の顔をじっと見た。

「龍君にとってはちょっと……」

「だから何なんだよ。もったいつけるなって」

「その人は明武館にいるそうなんです」

「ええーっ」

 龍は大げさに驚いてみせた。

 明武館と春日道場がライバル関係であることは皆、すでに知っている。

「じゃあ、明武館の先生か?」

「さあ、そこまでは」

 至が自信なさそうに答えると、龍は「よっしゃ!」と気合を入れた。

「明日は稽古ナシだから、明武館に行ってみようぜ」

「でも、あそこは龍君には鬼門じゃないですか」

「そんなこと気にしてられっかよ。牙門のために、みんなで協力しようじゃねえか」

「牙門……って、龍君、呼び捨て……」

 ひとつ違いとはいえ、五年生と六年生の関係である。至はハラハラしていたが、牙門自身は気にしていないようで、よろしく頼むと頭を下げた。

    ◇    ◇    ◇

 次の日の放課後、龍はロッキー、牙門と連れ立ち、至も御供に加わって明武館へと向かった。

 学校からは一キロほどの、住宅街の中にある明武館はもっとも近くにある道場ということで、通いやすいせいもあって、人気を集めている。

 いかにも道場らしい、古めかしい木造建築の春日道場とは違い、こちらは小型の体育館という感じで、明るく近代的な建物である。

 さて、到着してみたが誰もいない。キョロキョロしながら中をのぞいたが、どこにも人の気配はなかった。

「あれ、おかしいな?」

 首をかしげる龍に、至が問いかけた。

「今日は休みなんじゃないですか?」

「いや、ここは門下生が多くて、一度に稽古できる人数に限りがあるから、曜日指定で毎日やってるって聞いたけど。一週間のうちで通える日を選ぶシステムってこと」

 出入り口の前で迷っていると、足音が近づいてきた。

「そこで何をしている?」

 低く鋭い、聞き覚えのある声に、龍はギクリとした。

「ゲッ、おまえは」

 よりにもよってコイツに会うとは。しまったという表情の龍を見て、ロッキーが至にささやいた。

「あのクールガイは誰?」

「夏樹翔(なつき しょう)さんといって、牙門さんと同級になる六年生ですよ。明武館で一番強くて、小学生大会の個人戦では連続優勝の経験者です」

 赤いシャツにジーンズをはいた、この背の高い少年は顔立ちが整い過ぎて冷たい印象を受ける。大人びた雰囲気からか、中学生以上にしか見えない。

「道場破りにでも来たのか」

 そう言いながら、翔は肩から防具入れを下ろすと、出入り口の鍵を開けた。

「うるせー。そんなヒマジンじゃねえよ!」

 ムキになってかみつく龍、それもそのはず、龍は個人戦の決勝で毎回、この夏樹翔に敗れている。まいど準優勝に甘んじているのはコイツの存在があるからだ。

「……つまり、大げさな言い方をすれば、あの人は龍君の宿命のライバルなんです」

「ワオッ! なんだかカッコイイね」

 翔はこちらの三人にチラリと目をやったが、クラスが違うとはいえ、同級生の牙門に声をかけるでもなく、無言のまま中に入ろうとした。

 龍はあわてて扉を押さえながら訊いた。

「なあ、ここ、今日は休みなのか? この時間なら、みんないるはずじゃ……」

「そうだ」

「じゃあ、なんでおまえだけいるんだよ? 鍵まで持ってるし」

 翔は鼻先でフンと笑うと、脱いだ靴を下足箱に並べた。

「師範に一対一で稽古をつけてもらう。個人レッスンってやつだ」

 返事を聞いて、龍は「へえ~」と、わざとらしく感心した。

「さっすが。明武館のエースは特別待遇なんだな」

「そっちは毎日、一対一だろうが。もっとも近ごろはそうでもないようだが」

 すると龍は胸を張り、大いばりで答えた。

「おう、新しい仲間が入ったんだ。今度は団体戦にも出てやるぞ。おまえのとこには負けねえからな」

「一人足りないが、どうするつもりだ?」

 翔に突っ込まれて、龍は言葉に詰まった。何と言い返そうかとセリフを探していると、

「夏樹、待たせてすまなかったな」

 そう言いながら入ってきたのは、翔とマンツーマンの稽古の約束をした、明武館の師範・膳場忠明(ぜんば ただあき)だった。

 年齢は四十代から五十にかけて、いかにも武道を志す者らしく、精悍な顔立ちである。

「おや、君たちは? あ、春日君じゃないか」

 見知らぬ少年たちと、大会で顔を合わせたことのある龍がそこにいるのを見て、忠明は不思議そうに問いかけた。

「どうしたんだい? 今日は一般の稽古は休みなんだが……」

「えっ、あの、その、ちょっと」

 あたふたする龍にイチベツをくれて、翔は冷静に言った。

「道場破りだそうです」

「だから違うって!」

 それを聞いた忠明は「ハッハッハ」と笑った。

「こいつはいい。そちらの道場と本格的に手合わせするということかな?」

「メンバーが一人足りないらしいのですが」

 余計なこと言いやがってと、ムッとした龍が吠えた。

「うるせえっ、あと一人ぐらい、なんとでもならぁ!」

「え、あと一人って……二人じゃなくて?」

 きょとんとしたあと、至は「ええーっ!」と大声をあげた。

「それってボクも入ってるんですか?」

 龍、ロッキー、牙門にプラス一で四人。団体戦出場の五人にするには残り一人。簡単な算数だ。

 頭数に入れられておろおろする至に同情するどころか、ロッキーがおもしろがって「やったね! ドクターも仲間入りだ」などと茶化す。

「わーん、からかわないでくださいよー。ボクが運動オンチなの、知ってるでしょ?」

 すると翔が忠明の方を見ながら、思いがけない発言をした。

「師範、お願いがあるのですが」

「ん、なんだね?」

「次の大会までで結構ですから、オレがこいつらのチームに入ることを許可してもらえませんか?」

 翔のこの申し出はその場に爆弾を投げつけたような威力で、誰もがブッ飛び、あっけにとられた。

 驚きのあまり、しばらく口をパクパクしていた龍だが、

「……なっ、なっ、何考えてんだよ? なんでおまえがオレたちの」

「あと一人いればメンツが揃うのだろう。今から探して間に合うのか?」

「だからって何も……それに明武館の選手はどうなるんだよ? 大将のおまえが抜けたら困るに決まってるじゃねーか。ねえ、そうでしょう?」

 龍は忠明に同意を求めた。が、意外な言葉が返ってきたのである。

「うーん、それはなかなかいいアイディアかもしれんな」

「えーっ、いったい何言って……」

 翔に同意する忠明に、龍は面食らうばかりだ。

「いや、これは失礼。じつはつねづね思っていたんだが、ウチの連中は夏樹に頼り過ぎている、これはよくない傾向だとね」

 翔が対戦相手となって現れるのは明武館の選手たちにとって、いい刺激になるのではと忠明は考えたようだ。

「それじゃあ、オレとの試合はどうなるんだよ? 今度こそおまえに勝ってやる、決着つけてやるって、それがオレの目標だったんだからな」

 宿命のライバルとの対決を取り上げられてはかなわないと、龍が抗議すると、翔はこともなげに答えた。

「おまえとは個人戦で戦えばいいだろう」

「だ、だって」

「上位に残れば、同じチーム同士でも当たることになる。残ればの話だが」

「ちっくしょー」

 翔とも戦いたいが、団体戦にも出たい。ジレンマに陥る龍だが、ロッキーたちのことを考えると、翔の意見に従うしかなさそうだった。

「決まりだな。明日からそっちへ行く。覚悟しておけ」

 そう言い捨てた翔は悠々とした足取りで道場の中に入って行ってしまった。

「団兵さんには私からもお願いしておくよ」

 忠明がそう補足すると、龍は「はあ……」と生返事をするしかなかった。

 なぜ、こんな展開になってしまったのか。脱力した龍はここへ来た目的をすっかり忘れていたが、翔に続いて入ろうとする忠明を牙門が呼びとめた。

「あの、ひとつお尋ねしたいことが」

「何かな?」

「こんな剣を見たことはありませんか?」

 そう言って、牙門はポケットから白虎剣の写真を取り出し、忠明に手渡した。

「うーん、見覚えはないけど」

「そうですか。お手間を取らせて申しわけありませんでした」

 牙門の様子を見て、龍は「あっ」と叫んだ。

「しまった、それを調べに来たんだった。ねえ、ほかにも師範はいるだろ?」

「あと二人いるけど、明日でないと、ここには来ないよ」

 何事かと引き返してきた翔にも写真を見せたところ、彼は眉をひそめた。

「これは……?」

「おまえ、知ってるのか?」

「うるさい。耳元で騒ぐな」

 翔は何かを思い出そうと、しばらく考えたのちにこう言った。

「この前、骨董の押し売りに来た二人組が持っていた品に似ている気がする」

「押し売りが大二郎さんのところに?」

 忠明が口にしたのは翔の祖父、夏樹大二郎(だいじろう)の名前である。

 一代で会社を興し、一流企業にまで成長させた彼も今は顧問の座に退いて、もっぱら趣味の骨董集めに時間と金を費やしていた。

 そんな大二郎は明武館のオーナーでもあるが、自分は直接剣道には関わらず、その運営は忠明たちに任せている。

「色は違うが形は似ていたような……よく見なかったから、確信は持てないが」

「そ、それで、おまえのじいちゃん、その骨董をどうした?」

「とりあえず買ったらしい。本当に値打ちのあるものかどうかを馴染みの骨董屋に鑑定してもらうと言っていた」

「……リーチだね」

 ロッキーが目くばせをする。『輝蹟の剣』らしき骨董の鑑定を依頼してきた、明武館に関係のある得意客とは夏樹大二郎で決まりだ。あとはそれが本物かどうかの確認である。もしも本物なら、ロッキーふうに言えば「ビンゴ!」というわけだ。

 青竜剣が見つかった。それに引き寄せられるように、次の剣の存在が明らかになりつつある──

 エイ族の人たちの言葉が真実味を帯びてきて、龍は背筋がゾクゾクするのを感じていた。

    ◇    ◇    ◇

 翌水曜日、帰宅した龍がさっそく道場へと向かうと、すでに先客がいた。

 黒の稽古着と袴に身をつつみ、正座をした彼はじっと微動だにしない。研ぎ澄まされた刃のように鋭く、周囲を圧倒する雰囲気で、声をかけるのをためらった龍だが、相手が先に口を開いた。

「遅いぞ。さっさとしたくをしろ」

「わ、わかってるよ」

 夏樹翔は本当にこちらの道場へやって来た。実際に本人を前にしてもなかなか信じがたいが、やはり本気だったのだ。

 着替えをすませ、防具を持って戻ってきた龍はそれを翔の隣に並べて置いた。

「なあ、訊いてもいいか?」

「なんだ?」

「おまえ、どうしてこっちに入る気になったんだ? まさか、オレたちのチームの人数を揃えて大会に出してやろうなんて親切心はないよな。何か理由があるんだろ?」

 すると、翔は重い口調で言った。

「特別扱いから解放されたかった。それに……」

「それに?」

「……いや、なんでもない」

「なんでもなくは……」

 そこで龍は言葉を飲み込んだ。

 明武館の持ち主は翔の祖父である。選手に選ばれるにしても何かにつけても、オーナーの孫だからヒイキされていると言われるだろうし、そう思われるのがイヤだから実力で一番になろうとしたのではないか。

「……おまえ、あんがい苦労してるんだな」

「同情はいらん」

「そんなつもりはねえよ。とにかく今日からは仲間だ、よろしくな」

 昨日までライバルがどうのこうのと大騒ぎしていた龍だが、あっさりと切り替わるところが彼らしい。

「さーて、あいつらはまだかな。あ、来た」

 抜群のタイミングで至とロッキーがやってきた。

「だから、ボクには剣道なんて無理ですよ」

 悲痛な声で訴える至をロッキーが引きずるように、中に入れようとしている。

「リュウ、ヘルプ! ドクターが」

「龍君だって知ってるでしょう、ボクが超のつくほど運動オンチだってこと」

「まあ、それはそうなんだけど……」

 龍は両手を合わせて、至を拝むようにポーズをとった。

「わりい、大会が終わるまで協力してくれねえか?」

「そんな無茶な」

「無茶は承知の上だ。けど、五人揃わなきゃ団体戦に出られないんだ」

 頭を下げる龍に、これは引き受けるしかないと至も腹を決めたようだ。

「いいでしょう。でもボクは参加するだけですよ。最初から一敗しているものとして戦ってくださいね」

 至の返事を聞いて、ロッキーは大喜びで彼の首に飛びついた。

「サンキュー、ドクター」

 牙門はまだ到着していない。道場に備え付けの稽古着や防具を借りてしたくを整えた至はロッキーと共に、団兵の指導を受け、龍と翔は対戦形式の稽古・互格稽古を行うことにした。

 年に数回の試合でしか、翔と竹刀を交える機会はなかった龍にとって、こんなにもワクワクする稽古は初めてである。気合いは充分、肩に力が入りまくる。

「おっしゃー、行くぜ!」

「さっさとかかってこい」

 右足を強く踏み込み、大きくしなった竹刀の先が翔の小手に届いたかと思ったが、すんでのところで相手は身を翻し、反動をつけて打ち込んできた。

「おっと、そうはいかねえぜ」

 今度は龍が防御する番である。竹刀を竹刀で受け止めてグッと押し戻すと、体勢を立て直した翔は両腕を上げて、上段の構えをとった。

 通常用いられる中段の構えに対して、この上段の構えは胴がガラ空きになるぶん、防御が手薄だが、「どこからでもかかってきやがれ」という姿勢が攻撃的で、相手を威嚇するための、上級者向けの構えである。

「へんっ、カッコつけんなって。そら、胴を狙ってやる!」

 翔の間合いに飛び込む龍、その一撃をかわした翔は右手を竹刀から放すと、左手だけでそれを振って、見事に面を決めた。

「……やられたっ! 片手技かよ?」

「上が手薄になってるぞ、気を抜くな」

 龍の挑戦は続くが、さすがは夏樹翔、簡単に勝たせてはくれない。

 けっきょく一本もとれずに、ヘトヘトになった龍が肩で息をしていると、団兵が休憩を告げた。

「ばあさんに麦茶でもいれてもらおう。頼んでくるから、ちょっと待っておれ」

 互いに礼をして面をとり、タオルで汗を拭いながら、龍は翔の方を見た。

 いつも無表情な彼の顔が心なしか嬉しそうだ。何のしがらみもなく、プレッシャーからも解放されて、心おきなく稽古ができたからだろうと解釈した龍だが、それだけではなかった。

 明武館では敵なしの強さを誇る自分がライバルと認めた相手、今はまだ、だが、いずれ行く手に立ちはだかるであろう、その春日龍と共に稽古ができること、翔にとってはそれが何より嬉しかったのである。

 明武館を離れてこちらのチームに移ると提案したのも、本当はそういう目的があったからだった。

 いつもは見学だけの剣道を初めて体験して疲れ切った顔の至に、まだまだ元気いっぱいのロッキー、彼らも竹刀を置いてその場に座った。

 すると、

「ぎえっ!」

「どうしたんですか、龍君」

「あ、あそこ……」

 龍が指をさした先には体長十センチほどのムカデが床の上で赤茶色の身体をくねらせていた。

「なんて大きさ……気味が悪いですね」

 座ったまま、思わず後ずさる至たち、と、次の瞬間、ムカデはこちらを目がけて、まるでカエルのように、ぴょんと跳んだのである。

「うわーっ!」

 頭を押さえて伏せる龍、そこで翔が竹刀を振り、それが見事に命中。ムカデは宙を舞い、向こうの方へポトリと落ちた。

「……サンキュー、助かったぁ」

「たかがムカデで何を騒いている」

 呆れた様子の翔がそう言うと、龍は面目なさそうに言い訳した。

「オレ、足がいっぱいあるやつ苦手なんだ。クモとかハサミムシとか……」

「リュウは恐いもの知らずだと思ってたけど意外だね。じゃあオクトパスは? デビルフィッシュは?」

「タコ焼きもイカめしも好きだけどさ」

 おちゃらける龍たちにはかまわず、翔は今叩き落としたはずのムカデを探していたが、その姿はすでになかった。

「それにしても、こんな街中におっきなムカデがいるなんてびっくりだぜ」

「そうですね。あの大きさはふつう、山とか茂みに生息していると思いますけど」

 そこへようやく牙門がやって来た。

「あれ、どうしたの?」

「ちょっといろいろ……遅くなって申しわけない」

 いったい何があったのかと彼を取り巻くと、みんなの顔を見まわした牙門はおもむろに言った。

「先ほど祖父から連絡があって、大変なことになったと」

「大変なことって?」

「封印されていたはずの壺の蓋が開いてしまったのです」

                                ……❸に続く