MY MEMORANDUM

オリジナル小説を公開するブログです

サファイアの憂鬱 ❶

    プロローグ

 北から南へ、伊豆半島を縦断するスカイラインをひた走る車は晩夏の真昼の日差しを受けて、銀色に煌めく。

 オリンピックの五輪マーク、それに似たシンボルマークのついた高級外車を左の座席で操りながら、カーステレオから流れる曲に合わせて口笛を吹く人物を横目で睨むと、加瀬創(かせ はじめ)は疑り深げな様子で問いかけた。

「なあ、ほんっとーに、こっちの方にあるんだろうな、その何とかっていう研究所」

「だから、あるって何度も言ったでしょ」

「だって、さっきからずっと山の中じゃねえか。信じられねえ、嘘くせー」

「あなたね、自分の研究室の教授が信じられないって言うの? このアタシが、天下の天総一朗(てん そういちろう)が、よ」

「何が天下の天総一朗だよ、エラそうに。信じるも信じないも、普段の行いに問題ありすぎだから悪いんだって」

 ぶつぶつと文句を言いながら、創は助手席の窓から見える景色に目をやった。

 見渡す限り、山、また山。

 辺り一面に広がる山林を構成する樹木のほとんどが杉の木である。今が花粉の季節でなくて良かったと思い、軽く身震いをする。

 加瀬創、二十一歳。現在、神明大学農学部農学科に通う学生で、神明大とは都内のキャンパスに文系の学部を置き、神奈川県川崎市の川崎校舎には理系の理工学部と農学部を設置する私立の総合大学である。

 三回生となった今年度からは学部毎に幾つか設置された研究室のひとつを選んで所属した上、担当教授の指導を受けながら、卒業論文の準備をしなくてはならないのだが、この男ときたら入学以来、講義をサボッてはバイトにいそしみ、空いた時間はパチンコや麻雀三昧の日々を送っていた。

 従って自分たちの学部にどんな教授がいるのかも詳しく知らないというわけで、諸先輩方の薦めを鵜呑みにした創は園芸学第Ⅱ研究室への入室を希望した。

 その園芸学第Ⅱ研究室、通称・園Ⅱ研の担当教授が今、運転席でハンドルを握っている天総一朗なのだが、農学部一、いや、大学一の型破り教授として知らない者はいない超有名人なのである。

 なぜ総一朗が有名人なのか──

 有名国立大学を卒業後、そこの大学院から助手を経て、准教授として招かれたあと、四十歳にして既に教授という、スピード昇進をした切れ者。

 農学部の教授らしからぬ原色のスーツやら、キラキラとスパンコールのついたジャケットなど、目を見張るド派手なファッションに身を包んだ美男子にして独身。

 しかし、その名を轟かせている最大の理由は『オカマ』だから。

 もっとも、オカマが教授になってはいけないという規則はないので、この天教授、キャンパスをその派手な格好で堂々と闊歩しているし──たまに白衣などを羽織っている場合もあるが──受け持つ講義も面白いと人気が高く、教室にはいつも多くの学生があふれ返っていた。

 さて、自らゲイを公言して憚らない総一朗はこの四月に入室してきた七名の三回生の中でも、背が高くて飛び切りのイイ男、自分の好みにぴったりだという創に目をつけた。

 やれ、実験の準備の手伝いだ、文献調査だと研究室の部屋に顔を出すたび、セクハラ、パワハラもどきの言動を繰り返す総一朗に、創はようやく合点がいった。

 園Ⅱ研を薦めた某先輩の発言──「おまえならテストができなくても、出席足りなくても、楽勝で単位貰えるぜ。俺が保証してやる」とは、創が総一朗のタイプだと承知していた、そういう裏づけがあったからなのだ。まったく、とんでもない研究室に入ってしまったものである。

 しかし、当初は総一朗のセクハラ発言に辟易していた創だが、口で言うほど実害がない上に、根は気のいい人物だとわかったので、彼を軽蔑などせずに一応は先生として扱い、従っている。

 いや、優秀な教授として、じつのところ尊敬してはいるのだ。これでゲイ的セクハラさえなければ……

「あーあ、何の建物もなくなっちゃったよ。こんなところに住んでるヤツの気がしれないよな」

「ところがね、世の中には奇人変人の類がいっぱいいるものなのよ」

 総一朗はサングラスを少し持ち上げると、眩しそうな様子を見せた。

 本日のファッションは真紅のTシャツにコバルトブルーのジャケット、真っ白なパンツと、まるでフランスの国旗。こちらの期待を裏切らないスタイルである。耳朶にはゲイの象徴である片耳ピアスが光っていた。

(奇人変人、ねぇ。大学教授で、色男で、派手好きで、オカマ。人のことは言えないと思うけど)

 今日から九月だが、大学はまだ夏休み真っ只中である。例年夏休み期間中に企画されるゼミ旅行、これは研究室の教授と、そこに所属する四回生・三回生で構成される学生たちというメンバーでテーマを決めて、自分たちの研究の参考となる施設や機関を訪れるという、社会見学のような催しなのだが、実際には研究云々は付け足しであり、その実態は海へ、山へと繰り出す慰安旅行なのだ。

 園Ⅱ研の今年のテーマはこの半島にある、柑橘類の品質改良に取り組んでいるという研究施設の訪問だった。東京からはもっとも近い部類に入る観光地はもちろん神奈川県からも近く、箱根の山を越えればすぐそこ。

 見学を終えたあとは海辺の温泉旅館で旅装を解き、ビールを片手に、海の幸に舌鼓を打って……といった計画のはずなのだが、幹事の手違いで教授と創だけに連絡が行き届かず、他のメンバーは先に出発してしまった、二人であとから追いかけてきて欲しいと言われた、とのこと。

 それを今朝になって総一朗の口から聞かされ、半信半疑ながらも創はこの車に同乗しているという次第なのである。

「車持ってるヤツのところに分乗だなんてさ。貸し切りバスでもチャーターすれば、みんな揃って行けたのに」

「予算の都合上、そこまで贅沢はできないのよ。乗せてもらえるだけでも、ありがたいと思いなさい」

「よりにもよって、何でこの人と二人きりなんだか。ちなみに今の曲、三回ぐらい聴いたんだけど」

「いい曲でしょ、サイコ・キ・ネシスのニューアルバムよ」

 うんざりした様子の創にはおかまいなく、総一朗はうっとりとした表情で「何度聴いてもいいわぁ、ダイキのヴォーカルは最高よ」などと言ってのけた。

 インディーズから最近メジャーデビューしたばかりのロックバンドが総一朗の今一番のお気に入りなのはいいが、出発直後からずっと同じ曲を繰り返して聴かされる身にもなって欲しいものだ。

 呆れ顔で欠伸をかみ殺した創は観光案内の情報誌をパラパラとめくり始め、添付されている地図に目を留めた。

「今はどこら辺を走ってるんだ? 高級車のくせに、カーナビぐらい装備しろよ」

「機械には頼りたくないの」

「ひねくれ者。それにしても、さっきから走っている道は地図上のこのラインだろ。だとしたらさぁ」

 青いインクで描かれた細い線を人差し指でたどりながら、創は首を傾げた。

「ぶどう園だろ、ここはワイナリーだろ、研究所なんてどこにも載ってないけど。あれ、本当にこの道……」 

 創の疑問を遮るように、総一朗は「あーっ」と声を上げた。

「あんなところに別荘地が」

「えっ? ちょっ、ちょっとストップ」

 いつの間にか車は脇道に入っており、曲がりくねった細い道路が枝分かれする、その分岐点に木製の看板が二つ、にょっきりと立っていた。

『これよりK別荘地・無断侵入を禁ず』と書かれた看板の傍に車が停まると、創は車外に出て付近を見回し、総一朗もあとから降りてきた。

 そこには確かに別荘らしき建物がそれぞれ鬱蒼とした木々に囲まれて、ぽつりぽつりと建っている。一軒ずつの敷地はかなり広く、隣の建物まで何十メートルあるのかと思われるほど、余裕のある造りだった。

 別荘そのものも立派な建造物が多く、ここは伊豆の各地にある別荘地の中でも特に高級な土地で、それ相当の金持ちが集まる場所に違いないと創は思った。

「道に迷ったっていっても、ふつう、こんな場所に入り込んだりしないぜ」

 そこでピンときた。

「わざとだろ」

「何が?」

「どうも話がおかしいと最初から思ってたんだ。オレを罠にはめたな!」

「人聞きの悪いこと言わないでよ」

「じゃあ、これは何だよ?」

 創はもうひとつの看板を指さしたが、そこにはこの地に集まる別荘の配置と、それぞれの持ち主の苗字が記された、いわば案内図で、しかも一際目立つ場所に描かれた正方形の中に『天』の文字がこれでもかという大きさで書いてあったのである。

「こんな珍しい苗字がそうそうあるとは思えないからな。親父が大会社の重役だっけ、それならこの場所に別荘を持っていてもおかしくないってわけだ」

「ブラボー! さすが、見事な推理ね」

 あっけらかんと拍手をする総一朗に向かって、創は「何がブラボーだ、ふざけるな。自分ちの別荘にオレを連れてきて、どうするつもりだよ!」と噛みついた。

「どうするって、そりゃあ決まってるじゃない。ゼミ旅行の前に……うふふ」

「ゼミ旅行の前、ってまさか?」

「明日、つまり九月二日から三日間の日程よ。この前の幹事の説明、ちゃんと聞いておけばよかったのにね」

「おのれ、このセクハラオヤジめが!」

 いよいよ本領発揮、実害に及んできたというわけか。

 歯ぎしりをする創が今にもつかみかかろうとしたその時、クラクションを鳴らす音が聞こえてそちらを見ると、真っ赤なボディのオープンカーがシルバーボディの隣にゆっくりと停車した。

「やあ、天さんのところの総一朗さんじゃないですか。相変わらずイカした格好ですね。それにしても、こんな場所でお会いするとは奇遇、あっ、そうか。ここにお父さんの別荘があったんでしたね」

 運転席から声をかけてきたのは四十代後半から五十代とおぼしき中年男性で、派手な若者仕様の車にも驚いたが、それ以上に驚かされたのはその服装だった。

 目の覚めるようなグリーンのポロシャツに黄色のキャップ、堅気の人には見えない真っ黒なサングラスと、これまた派手な色使い、小物使いで、センスはあまりよろしくないし、総一朗のことをとやかく言えた義理ではないかと思える。

「ホントにお久しぶり。新作の『貴方が書いた三行半』が完成したからって、その案内を兼ねて、ウチにご挨拶にみえたのがたしか、四年前かしらね、それ以来だわ」

 運転席の男性──日に焼けた肌に大柄な体格、精悍な顔立ちと、サングラスをはずした顔はどこかで見覚えがある。

 愛想のいい返事をする総一朗と相手を見比べながら、いったい誰だろうと頭をひねっていると、創の耳元に「岡部登志夫(おかべ としお)よ」と囁く声がした。

「岡部って、まさか、あの映画監督の? えっ、知り合い?」

 オカマの大学教授と新進気鋭の映画監督の間にどういう接点があるというのだ。

「ねえー、監督。アタシお腹空いちゃった。あら、この人たち、だあれ?」

 赤い車の助手席から蓮っ葉な声がして、声の主を見た創はさらにたまげてしまった。

(あれって、もしかして菊川彩音(きくがわ あやね)? 嘘だろ、マジかよ!)

 菊川彩音といえば、今一番人気のあるアイドルの一人で、世間に公表されている年齢は二十二歳だが、本当かどうかは戸籍謄本でも取らなければわからない。

 幼い感じのする顔立ちながら、モデル出身の抜群のスタイルと小悪魔的な、コケティッシュな魅力、明るいキャラクターを武器に、ドラマにコマーシャルにと引っ張りだこ。飛ぶ鳥を落とす勢い、という状態である。

 身につけたキャミソールは背中や胸元を露出したデザインで、ピンクや金銀といった色を使っていてかなり目立つ。金色に近い色に染めた、ウェーヴのかかった長い髪が身体を動かすたびにさわさわと揺れて、テレビ画面で見るよりも化粧が濃く、ケバイ女といった印象を受けた。

 ここ何本か、話題作を世に続けて送り出している映画監督と売れっ子アイドルの組み合わせは芸能通でなくても興味津々、目を皿にした創は三人のやり取りを見守った。

「こちらは天総一朗さん。私が監督業を始める前に勤めていた会社の、上司の息子さんでね。転職を考えているときに、随分とお世話になって以来、家族ぐるみのおつき合いなんだよ。総一朗さん、こちらは……」

「知ってるわよ。菊川彩音さんでしょ」

「はは、ご存知でしたか。いや、女性には興味がおありにならないと思ったもので」

「そこまでモグリじゃないわよ」

 映画監督という職業から、もっと威張りくさっているのかと思ったが、岡部登志夫は陽気で腰の低い、好感の持てる人物である。

 総一朗をじっと見つめていた彩音はマスカラまみれの睫毛からバサバサと音がしそうなほど瞬きをすると「この人ってオカマさんなの?」と登志夫に尋ねた。

「い、いや、その……」

 返事に詰まる監督を尻目に「そうよ」と総一朗は言ってのけた。オカマで悪かったわねという心の声が聞こえてくる。

 その憮然とした表情に、傍で見ていた創は思わず苦笑した。総一朗が若い女、それもアイドルなどという、チャラチャラした存在を毛嫌いしていることを人一倍よく知っているからだ。

「アタシ、一回だけオカマバーに連れて行ってもらったことあるのよ。みんなお化粧して、女の人の服を着ていたけど、そういう格好はしないのね」

「あ、彩音ちゃん、総一朗さんはこう見えても大学の偉い先生なんだよ」

「へえー、大学の先生なんだ。どうしてそれがオカマになっちゃったの? オカマでも先生になれるの?」

 中背で痩せ型、ヤサ男の総一朗は人並み以上の美男子でもある。はっきりとした二重瞼の目は黒目がちで大きく、右の目元のホクロが色っぽい。鼻筋は高くて唇は程好い形をしている。鳶色の長めの髪は豊かで白髪はなく、肌には皺も少ないし、見た目年齢は三十代前半で通用するだろう。

 いくらか中性的だが、スーツ等を着ていれば一端の紳士に見えないことはない。口を開きさえしなければ、オカマだと指摘されないはず……とは言い切れないが。

 次々に飛び出す彩音の考えなしの発言に、登志夫がますます狼狽する様子は見ていて気の毒なほどだった。

「どうして、なんて、失礼だよ。彩音ちゃん、口を慎んで……」

「偉いかどうかは不明だけど、オカマが本業じゃないことだけはたしかね」

 登志夫のフォローも空しく、総一朗はひと昔前の歌謡曲が似合いそうな甘めのテノールで、皮肉混じりの言葉を放った。

「で、気鋭の映画監督がこんな場所に何の御用? 若い女の子と秘密のお楽しみ、ってとこかしら。奥さんにチクッてやろうっと」

「滅相もない」

 強くかぶりを振った登志夫は次に、この別荘地に来た経緯を説明し始めた。

「総一朗さんは三島宣昭(みしま のぶあき)というミステリ作家の名前をお聞きになったことは?」

「何年か前から売れるようになった人ね。たしか、何とか探偵っていうシリーズ物がブームになった」

 ええ、とうなずいた登志夫は「セレブ探偵・伊集院エリナです」と付け足した。

 大金持ちのお嬢様で、モデル上がりの美人探偵・伊集院エリナが世界の犯罪者を相手に抜群の推理力を発揮するという触れ込みの、三島宣昭著のセレブ探偵シリーズは現在までに十作ほど出版されている。

 舞台はフランス、イタリア、スペインなどで、現地を旅行やら仕事で訪れていたエリナが殺人事件に相次いで遭遇するが、それらを快刀乱麻の活躍で解決するというストーリーは若い女性に大受け。確実に版を重ねているというのが実情だ。

 諸外国の中でも女性好みのオシャレな国を取り上げて、外国人が多く訪れる有名観光地における、イマドキ流行りのカタカナ職業の男女が繰り広げる愛憎劇。人気ブランド品を絡めるなどの、女心をつかむ作戦が功を奏したらしい。

「アタシは作家でも評論家でもないから、現代におけるミステリの定義について偉そうに語るつもりはないけれど、少なくともアレを『推理小説の本格物』とだけは呼ばないで欲しいわね。ヴァン・ダインやロナルド・ノックスから本格ミステリの法則に反してるって、抗議文が届くわよ」

 オカマの大学教授はなかなかのミステリマニア、それも本格物を好むらしく、古今東西の名作と呼ばれる作品はすべて読破しており、この世界には相当うるさいのだ。

 ミステリというジャンルがここまで多様化した昨今、本格物の枠組みにこだわり、そこからはみ出たものについては評価しない。

 そんな度量のなさをアピールしたくはないが、と言いつつも『枠からはみ出ている、それ以上に似非ミステリで、文学的価値のないセレブ探偵』批判を続ける総一朗を見て、創はやれやれと肩をすくめた。

(思いっきりこだわってるじゃないか。アピールしまくってるぜ)

 黄色のキャップを脱いだ登志夫はポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭くと、いくらか困惑した表情で言った。

「総一朗さんのお考えはそうかもしれませんが、世間ではセレブ探偵を支持する声が多くて、ぜひとも映像化して欲しいと。映画はもとより、単発のテレビドラマの話も何度となく持ち上がったんですよ」

 原作者である三島氏が首を縦に振らなかったらしく、これまでの企画はすべて立ち消えになっていた。

 ところが、ここにきて気持ちが変わったのか、三島宣昭はシリーズ第一作目にあたる『蒼い堕天使』に関して、とある制作会社の映画化案を承認したというのである。

「映画の話が決まったところで、三島先生の別荘へのお招きが私共に打診されましてね。泊まりがけでバースディパーティーをやるとか何とかで、その日が今日なんです」

 そう語る登志夫の顔はますます困惑の色を深めていた。

 映画化にあたっての監督は登志夫に決定で、脚本等の担当者もほぼ目星がついているが、それ以外の具体的な事項はまだ何も決まっていない。

 しかし、正式なオーディションを前に、主役の伊集院エリナ役や、エリナの恋人であり、準主役となる新聞記者の稲垣ゲン役など、キャスティングを巡っての、水面下での駆け引きは行なわれているようだ。

 そこらの事情を知ってかどうか、三島氏が主だった候補者を指名すると、監督である登志夫も含めて、自分の『誕生日を祝う会』に招待したい、と言い出したのである。

 伊豆の奥地の別荘を選んだのは有名人たちが集まるのに際して、人目が多くて煩わしい都内を避けたいという理由から。

 まさか原作者の申し出を無視するわけにはいかない。たかだか一泊か二泊の計画だし、応じるしかないと、指名を受けた登志夫たちは仕方なく、会場である別荘に向かっているという話だった。

「行かない、行けないと返事をして、ヘソを曲げられては困りますからね。ようやく承認を取り付けた映画化の話がパー、なんてことになったらお手上げですし、私が責任を問われますから、たまったもんじゃありません。いやぁ、彩音ちゃんのスケジュールを調節して連れてくるのに骨が折れましたよ」

「じゃあ、その子がエリナの役なのね」

「ええ、まあ。最有力候補といったところでしょうか」

 語尾を濁し、曖昧な返事をする登志夫とは対照的に、彩音はあっけらかんとしていた。

「エリナはアタシしかいない、って、ウチの社長が言ってたもん。そのために連ドラのオファーまで蹴ったのよ」

「まあまあ、その話は……」

 彩音の言葉を遮ると、ところで、と登志夫は総一朗に向かって訊いた。

「当の三島先生の別荘がどこら辺なのか、ここの土地に明るい総一朗さんならご存知でしょう? 私はこの辺りに来るの、初めてなんですよ」

「場所も訊かないで来たの?」

 登志夫は案内図の看板を示して答えた。

「K別荘地だとは教えられたのですが、そこの図には載せていないと聞いたので」

 天家のように堂々と苗字を載せている家もあれば、場所を誰にも知られたくないからと、秘密にしている家も幾つかあるらしいが、それでもかまわないのかと創は首を傾げた。

(それがこの別荘地のルールってことか。何だか不公平な気もするけど)

「場所ねぇ。ミステリの大家とは昵懇にしていないけれど、だいたいの見当はつくわ。だけど、もしアタシたちに会わなかったら、どうやって探すつもりだったの。電話して迎えに来てもらうとか?」

 登志夫は首を横に振り、次に呆れた顔をしてみせた。

「三島先生は機械嫌いでしてね。静かな別荘に東京の雑音を持ち込みたくない、電話は引いていないし、自分の携帯電話も持っていないから、建物の写真を頼りに探してくださいとのことです。作家の遊び心につき合うのもひと苦労ですね」

 東京ドーム何個分と換算されるほど広い場所ではなくとも、建物一軒一軒を見てまわるのはかなり面倒な作業だと予想はつく。

 ここで総一朗に会ったのは地獄に仏、と、そこまで大袈裟ではないが、登志夫にとっては大助かりという心境のようだ。

 封書で送られてきたという写真には二階建ての大きな建物が写っていた。鋭角に尖った屋根、臙脂とも焦げ茶ともつかない色合いの煉瓦をあしらった壁に、黒い枠の小さめの窓。手前には草花に彩られた庭園が広がり、ヨーロッパの田舎にあるお屋敷といった風情である。

 案内するのはいいけど、と総一朗は渋面を作った。せっかく創を我が家の別荘へ御案内のつもりだったのに、とんだ邪魔が入ってしまったと思っているらしい。

 ここにきて、ようやく総一朗の連れの男に目を留めた登志夫は「あちらの方は?」と訊いた。

「ああ、アタシのカレシ……」

「天先生には研究室でお世話になっている加瀬創と申します!」

 余計なことを言われてはかなわないとばかりに、創は大声で自己紹介すると、総一朗を睨みつけた。

「研究室、というと、大学の教え子さんですか?」

「まあね、そういうこと」

 ぶすっとする総一朗から創に視線を移した 彩音が「カレシィ? 若いしぃ、なかなかイケメンじゃない。齢の差カップルね」などと言い出した。

「ねえ、キミ、齢は幾つなの?」

 これまでは彩音のファンでも何でもなかった創だが、いきなりトップアイドルに声をかけられて、男同士の齢の差カップル説を否定するのも忘れ、すっかり舞い上がってしまった。

「にっ、二十一です」

「ふーん、かっわいい。ヨロシクね」

 彩音にヨロシクと言われて、俄然張り切りだした創は二人を三島宣昭の別荘まで案内しようと、総一朗を説得した。

「まさか困ってる人たちを見捨てて、さっさと自分の別荘へ行くような、人でなしじゃないよな?」

「うるさいわね、わかったわよ」

 しぶしぶ承知した総一朗は先導するからついてきてくれと登志夫に言い、車のドアを開けた。創も急いで助手席に乗り込む。

 二台の車両は別荘地の入り口から奥へと向かう幾つかの道のうち、一番左寄りの道路を走り始めた。

 一応アスファルトで固められてはいるが、ここらの開拓と同時に造られ、あとはそのままの状態と思われる道路は再舗装される機会もなく、かなりガタがきていて、サスペンションのいい車でも路面から受ける振動がもろに伝わってくる。

「こっちの方向なのか」

 創の問いかけに総一朗は頷いた。

「ウチの別荘がある付近の建物はだいたい知っているし、その中に写真の別荘はないからね。図には載せたくない、誰にも知られたくないっていうのなら、できるだけ奥に建てるしかないのよ」

 たとえ名前を明示しなくても、人々の目に触れないようにするために奥地を選ぶというのは自然な考えである。

「他の道は途中で行き止まりになったり、合流して入り口に戻ったりしているの。この道が一番奥まで続いているってわけ、土地勘がなければ迷って当たり前でしょうね」

 曲がりくねった道路を挟んで、右側は他所の別荘あるいは空き地になっているが、左側には林が迫っており、その影が路面に伸びているせいか、木陰になって涼しい。

 どれだけも走らないうちに、右側は空き地のみになってしまった。雑草の生い茂った土地がわびしげに続く。これでしばらくは誰の別荘も存在しないだろう。

 問題の建物がないかと目を凝らし、右だけを見ていた創は首が疲れたと言って今度は反対側を向いた。

 林の陰に隠すように車が、それも一台だけではない、ぽつぽつと数台置いてある。駐車場でもないのに、いったいなぜだろうと思っていると「不法投棄よ」という答えが返ってきた。

「リサイクル法とか何とかでうるさくなったじゃない」

「あ、そうか。テレビやエアコンなんかの古くなったやつを勝手に山の中に捨てていく人がいるって、問題になったよな」

「それの車ヴァージョン。廃車にするお金が惜しいのか、他に理由があるのか、ナンバープレートはずして乗り捨てるのよ。別荘地なんて、ちゃんと舗装された道のわりに普段は人が住んでるわけじゃないから、捨てやすいのね」

「ここに来るまでのガソリン代考えたら、廃車にした方がいいと思うけど。すげえ迷惑な話だな」

「一応は取り締まりしてるみたいだけど、いたちごっこよ」

 それにしても、と創は思った。

 今から有名ミステリ作家の別荘へ行くのだ、しかも、これまた有名な映画監督と、人気アイドルと一緒に。

 二人の乗った赤い車体がうしろにぴったりとついてくる、それがバックミラーに映るのが見えると、ウキウキワクワクと浮かれ気分になってきた。

 そんな創を横目で睨んだ総一朗は「セレブ探偵なんて、流行語に乗っかったダサいタイトルよね」とけなした。

(やれやれ、また始まったよ)

 これから著者本人と対面するかもしれないとあって、当人の目の前で失言してしまわぬよう、今のうちに腹の中の悪口を全部吐き出しておく所存らしい。

「あなたは読んだことある?」

「いやぁ、オレ、あんまり本は読まないから。三島宣昭って名前も初めて聞いた」

「あれは読む価値はないけど、読書はもっとしておいた方がいいわ。社会人としての一般常識を蓄えておくためにもね。シューカツのことも考え始めなきゃならないでしょ」

「はいはい」

 そこでセレブ探偵だが、

「四年の高林くんがファンなのよ。単行本を持っているのを見て、借りて読んだけど、あれはトラベルガイドブックか、海外ブランドお土産カタログだと思って読んだ方がいいみたい」

 いったいどんなストーリーなのか、どこをどうすれば殺人事件の話になるのか、まったく想像がつかない。

「だいたいねぇ、小娘なんかに重大な殺人事件の捜査を任せるなんて、絶対に間違ってるわよ。探偵には品格ってものがなけりゃあね。世間は許してもアタシが許さないわ」

(小娘嫌いだもんな)

 ちなみに、園Ⅱ研に女子大生は一人も在籍していない。

 口角に泡を飛ばして、総一朗の探偵論議が白熱してきた。

「世界の名探偵といえば、オーギュスト・デュパンに始まって、超有名で名探偵の代名詞のシャーロック・ホームズに、エラリィ・クイーンにファイロ・ヴァンス様とか、みんなそれなりに品格があるものよ」

「何でヴァンスにだけ『様』つけてんだよ」

「うふふ、お金持ちでイイ男だから」

「おいおい。じゃあさ、ポワロとか、あとは誰がいたっけ、ミス・マープル?」

「ああ、あの人たちね。名探偵は認めるけど……」

 語尾を濁す総一朗を不審に思いつつ、創は頭の中で自身の持つ、ミステリ界における名探偵に関する知識を総動員していた。

「日本だと明智小五郎かな?」

「えー、奥さんいるし」

「品格に奥さんの有る無しが関係あるのかよ」

「うーん、やっぱりコウちゃんでしょ」

「コウちゃん?」

「金田一耕助に決まってるじゃない」

 日本の名高い名探偵をコウちゃん呼ばわりする総一朗に、創は呆れ返った。

「何だよ、そのなれなれしい呼び方は。あんたのダチかよって。あ、そうか、わかった」

「何がわかったって?」

「要は若くて独身の男ならいいんだろ。イケメンなら、なおオッケーってわけだ」

 図星だったらしい、笑って誤魔化す教授に腹が立ってきた創は容赦のない罵声を浴びせた。

「だからミス・マープルはどうでもいいみたいな反応だったんだ。品格がどうのこうのってエラそうなこと言っておいてさ、自分の趣味で選んでるんじゃ世話ねえよ。名探偵を選り好みするなんて、この不届き者め」

「まあまあ、落ち着いて。探偵役はともかくとして、内容にも大いに問題ありなのよ」

 名誉挽回しようと、総一朗はセレブ探偵がいかに駄作かを力説し続けた。

「謎解きの部分なんて、まるでお話にならないほどちゃち。安易な機械トリックにいい加減なアリバイ、動機までが意味不明で、鼻で笑っちゃったわ。あの程度の理由で殺されたら、それこそ浮かばれないでしょうね。とにかく薄っぺらな話よ」

「そんな内容なのに、映画にするほど人気があるんだ」

「支持してくれる人が大勢いれば、駄作も晴れて名作の仲間入り、ってことね。まあ、世の中の流行なんてそんなもんよ」

 右へ左へとカーブが続く。やがて林の向こうに建物が見え隠れしてきて、それが煉瓦の壁だとわかると、創はあれじゃないかと指し示した。

 こうして総一朗と創の迷もとい、名コンビは不可解な事件の舞台に到着したのであった。

                                ……❷に続く