MY MEMORANDUM

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パールの変調 ❼

    第六章

 室内は不気味なほどに静まり返っていた。

 先生が漏らした「思わぬ伏兵」という言葉がみんなの心に暗い影を落とす。それは愛美や摩耶自身以外の誰かが毒を持ち込んだのではという結論に至ったからだった。

「この伏兵もまた、摩耶さんを殺したいほど憎んでいた。愛美さんからもたらされた毒物の名前がヒントになった。砒素を使って摩耶を殺そう。疑いの目は毒を盗んだ可能性のある愛美に向けられる、自分は絶対に安全だと。そうですね、谷崎聖子さん」

 恐いほどの沈黙がその場を包み込む。真犯人と指摘された聖子はその名の一字のように、聖女のような顔で先生を見つめていたが、驚きもしなければ怒りもしない。無垢で無邪気な、まさに天使の様相だった。

「……な、なぜ、どうしてなんですか? 先生、答えてください! 聖子が、彼女がそんな恐ろしいことをするはず」

 真っ青になり、狂ったようにしゃべりまくる譲を見て、ゲラゲラと笑いだしたのはずっと沈黙を守っていた愛美だった。

「あんたって、よくよくおめでたい人ね。あんたと摩耶がどういう関係だったか、そこの女が知らなかったとでも思ってるわけ? 最低最悪、おバカすぎて話にならないわ」

 愛美は得意気になって譲と摩耶の淫らな関係を暴露した。おしゃべり文学部の解説にあったとおり、当初は何かとつきまとう摩耶を疎ましく思っていた譲だが、同じ演奏グループになって接触しているうちに、とうとう「落ちて」しまったらしい。

 いくら生真面目な青年でもキャバ嬢の色気には勝てなかったというわけだ。とても手出しできそうにない、穢れなき聖女を恋人にしていた反動だったのかもしれない。聖子の目を盗んで、二人はラブホテルなどで逢引を重ねていたが、追いかけていた相手が手に入ると飽きてしまうハンター摩耶はやがて譲から離れて別の男を追うようになり、譲の方も彼女とは何事もなかったかのごとく振舞っていたという次第だ。パブリック・トイレットって、ああ、そういう意味だったのか。誰とでもってことか。

「あんたたちはハイ、さよならで解決したかもしれないけれど、その女は納得していなかったのよ。執念深く摩耶を憎んでいたことをワタシは知っているわ。そうそう、夏の合宿のときだったかしら、食堂にいたゴキブリをもの凄い顔で叩き潰しているのを見たの」

 聖女のような女性が、とても信じられないといった様子の部員たちだが、ついさっき同じ場面を目撃したオレたちには納得がいった。

「彼女の本性を見たって感じがしたわ。虫も殺さぬような顔をしてって言うけど、その顔で虫どころか人間まで殺すんですもの。見かけに騙される男ってつくづくバカ。さあ先生、その猫かぶり女がどういう手段で売女を地獄に突き落としたのか、説明してくださいな」

 すっかり毒気にあてられた人々の中にあっても、先生だけは頷いて平然と応じた。

「わかりました、続きをお話ししましょう。隣の控え室にはたくさんの菓子が届いていましたね。あれらはすべて摩耶さんが注文をつけて卒業生の方々に贈らせたものであり、どんな種類の菓子が届くのかはここにいる皆さん、特に菓子に関心のある女性は周知でした。五箱届いたという菓子は受付のお三方の手から、他の人に渡って控え室に運ばれましたが、その中の一人に聖子さんがいました。これは先ほど確認済みです。まんまと目的の菓子を手にした聖子さんはそれをみんなに配る担当となり、中のひとつをあらかじめ用意しておいた毒入りのものにすり替えた。愛美さんの行動には注意を払っていた摩耶さんですが、彼女以外に自分を狙う人がいるとは思っていなかった。何しろ楽しみにしていた菓子ですからね、聖子さんが差し出した毒入りを何も疑わずに食べてしまったのです」

 そこで部員の一部から疑問の声が上がる。自分たちは実際に菓子を食べたからわかるが、個包装されているあれらの既製品に毒を入れる方法があるとは思えないという反論だった。

「僕も控え室に行くまではこの推理に自信が持てませんでした。菓子の小袋が開いていたら誰でも怪しむでしょうからね。ところが、ひとつだけ毒を入れることが可能な菓子があったのです」

 そこで鴨下警部補が派手な色の缶と外箱を披露した。

「ノディバのチョコレートです。残っていた中身は鑑識にまわされているのでこの場にはありませんが、缶が入っていた外箱に現物の写真が印刷されていました。もちろん、そのとき御覧になった方は覚えているでしょう。ひとつひとつが銀紙、いえ、銀一色ではありませんから、カラーホイルの包み紙で包まれているものです」

 先生がお菓子の箱をチェックしていたのにはそういう理由があったのだ。外箱を見ると金銀の他に赤、青、緑と、鮮やかに光るチョコたちが写っており、それぞれハートにスペード、クラブ、ダイヤといったトランプのマークをかたどっていた。

「演奏会当日にこのチョコが届けられると知った聖子さんは同じものを前もって買った。先ほど皆さんが疑問視されたように、既製品の菓子に毒が混入されるはずはないといった盲点を突くつもりだったのではないでしょうか。それから摩耶さん同様にネットか何かで砒素を手に入れると、湯煎で溶かしたチョコに混ぜた。チョコは元と同じ形に作り上げてもう一度包み直す。チョコに限らず、菓子の到着を待ちわびていた摩耶さんは多少形が歪んでいても気にせず、それを口に入れたのだと思いますが、それとも本物と見分けがつかないほど、上手に仕上がっていたのかもしれませんね」

 間髪を入れずに鴨下警部補が「モップの柄に残った指紋と照合させてもらいましたが、この缶には谷崎さんの指紋がたくさん残っています。他の方々の指紋もありますが、蓋や側面だけでなく缶の底にも残っていたのは彼女のものだけでした。チョコをすり替えられるのは配った当人しかいない。恐らく缶を両手の掌に乗せて皆さんのところに配って回ったあと、最後にテーブルの上に置いたのではないかと思われますが、いかがでしょうか?」と問い質した。

「た、たしかに、そのチョコは聖子先輩が配っていましたけど……」

「先輩がつまんで配ったんじゃなくて、みんな自分で選んで取ったんですよ。摩耶先輩だけが毒入りを選ぶなんて、そんなうまい具合にいくものでしょうか」

 まるでロシアンルーレットのように毒入りチョコが回っていたとは思えない。聖子はどうやって自分の『作品』を摩耶に選ばせたのだろうか。すると先生は後ろに置いてあったものを持ち出した。

「これは何だかわかりますね? そう、摩耶さんの持ち物のバッグです。真っ赤なハートの形をしていますが、どうでしょうか?」

「あーっ!」という歓声にも似た声が上がり、思わず椅子から立ち上がる者もいた。

「摩耶さんが取る手前で、缶の中から赤いホイルのハート形のチョコだけを抜き、用意しておいた同じ色の包みと形の毒チョコを入れておけば……確率はかなり高いと思いますが」

 摩耶という女の好みを知り尽くした上の作戦勝ちといっていいだろう。唖然とする人々の前で、先生はダメ押しの一言を付け加えた。

「ちなみにこの缶には四十個入りと明記されています。鑑識にまわされた残りのチョコと、控え室その他のゴミ箱に捨ててあったカラーホイルの包みを合計したところ四十一個分になりました。集計してくださった警察の皆様、大変御苦労様でした。念のために赤いホイルの分は指紋を鑑定してもらいましょうかね」

 缶に残った指紋程度では決定的証拠にはならないかもしれないが、聖子にしてみればかなり追い詰められたはず。だが、彼女は相変わらず悠々としていた。これまでのやりとりなど、まるで関わりなどないといった様子に、見ている方が苛立ってくるほどだった。

 ここで探偵モードを解除した先生は「聖子さん、あなたはやはり、譲くんの浮気が許せなかったのかしら?」と訊いた。

 すると彼女はあどけない表情を向け、小首をかしげてみせた。

「あのね、わたしはスイーツが大好きなの。自分でもよく作るのよ、チョコも上手に作って、護さんにあげたこともあるわ、ねっ?」

 護はといえば、顔面を蒼白にして唇を震わせていた。聖子は今、自分がチョコを上手く細工できると自慢している──毒入りチョコを使っての犯行を認めたようなものだ。

「だから、スイーツにたかるゴキブリさんがとってもキライなの。だってそうでしょ、あの汚らしい手足や口で、わたしの好きなものを遠慮なく触ったり、かじったりするのよ。あとで食べようって楽しみにしていたのに、ひどいじゃない。あんまりだわ」

 先生の問いかけなど、どこ吹く風といった様子だ。まるでメルヘン童話を語って聞かせるようなおっとりした口調に、却ってうすら寒いものを感じてしまう。

「だから徹底的に叩き潰すのよ。絶対に生き返らせちゃダメ。そう、お家ではホウ酸ダンゴをよく仕掛けるわ。あれってなかなか効果があるのよ、ウフフ。ゴキブリさんがどんどん死んでいくのって、とっても気持ちがいいじゃない? 図々しい害虫さんはさっさと死んでくれなきゃイヤなの」

「……ノディバのホウ酸ダンゴかよ」

 オレは思わず呟いた。彼女にとって摩耶は譲という名のスイーツにたかるゴキブリだったのだ。スイーツをかじり終わって立ち去ったあとも、そんなゴキブリを許すことなどできず、徹底的に叩き潰した──ホウ酸ダンゴを仕掛けたというわけだ。

「たしかにゴキブリの存在は許しがたいけれど、同じように人の命を奪ってもいいのかしら? それがゴキブリレベルの人間であっても、叩いたり殺虫剤をかけたりする権利はないと思うんだけど」

「あら、そうかしら? だってゴキブリみたいな人よ、生かしておいたって害になるだけでしょう」

「そんなふうにしか考えられないのは悲しいことよ」

 会話は平行線をたどるばかりで、のらりくらりの受け答えにさっきからイライラしていた鴨下警部補は「さきほどからの発言は自白とみなしますが、よろしいですね。ともかく署の方で、もう少し詳しく話を聞かせてもらいましょうか」と促し、聖子は思ったよりも素直に応じて席を立った。鷺坂刑事たちに付き添われ、地上に舞い降りた堕天使は人々の前から姿を消した。

 深い溜め息をつく部員たち、机にうつ伏せて頭を抱えたまま微動だにしない護、うつろな目で天井を見つめている哲──ただ一人、満足げな笑みを浮かべる愛美の方を向いた先生は「さあ、あなたも今のうちに、鴨下さんに告白した方が身のためよ」と言い放った。

「何の話かしら?」

「しらばっくれないでね。毒物の窃盗も重罪よ」

「イヤだわ、Ⅰ研から盗んだのはやっぱりワタシだと思ってるの?」

「ええ、そうよ。あそこの研究室に保管されている砒素類は大きく分けて有機砒素と無機砒素、無機砒素には三価と五価の二種類があって、三価すなわち三酸化砒素を亜砒酸と呼ぶ。そして大学側はこの中のどれが盗まれたのかは公表していない。だから哲くんにしても、誰にしても、砒素としか呼んでいなかったけれど、あなたは亜砒酸と即答したわ」

「何かと思えばくだらない。殺人に使われる砒素といったら亜砒酸と、相場は決まってるでしょう」

 顔色ひとつ変えない愛美の態度を見て、先生は肩をすくめた。

「まあ、いいわ。それじゃあ次、そのピアスを見せてくれる?」

 ピアスという言葉に反応したのはショートヘアーの経済学部の一年で「えっ、愛美先輩って金属アレルギーじゃなかったんですか?」という問いかけに、多くの部員が驚きの反応を示した。

「長い髪とアレルギー説で隠していたのよね。あらまあ、なんて大ぶりなピアスなの。カラーストーンの部分が蓋になっているのね、まるでロケットペンダントみたい。そこに小さなもの、例えば薬の結晶なんかを隠すのには最適ね」

 観念したらしく、愛美はピアスをはずして中身を披露した。

「隠し場所としてはなかなかのアイディアだったわね」

「猫かぶり女が今回の行動を起こさなければ使うつもりだったわ。ええ、もちろん打ち上げのときによ。演奏会の最中は用心していても、お酒が入れば油断するから」

 何がなんでも決着をつけたかったと愛美は心中を吐露した。

「最後のコンパにおいてまで、あの売女が男に絡んでじゃれ合うのなんか見たくないもの。しかも泊まりでの飲み会よ、何かやらかすのは火を見るよりも明らか。とてもじゃないけど耐えられないわ」

「ましてや、そのお相手が哲くんだったりしたら、でしょ」

「ええ。ワタシのプライドはとっくにズタズタ、今さら失うものなんてないけど、それでもあの女だけは許さない! 地獄で再会したら、もう一度呪ってやるわ」

 激しい口調で摩耶を罵った愛美はそれからニヤリと笑った。

「この世に純粋無垢な女なんていやしないのよ。すべての女は自分の人生という舞台で、一生演技を続ける女優なの」

                                 ……❽に続く