MY MEMORANDUM

オリジナル小説を公開するブログです

パールの変調 ➊

    序章

 オレが私立の総合大学・神明大学に入学した年の冬に、もっとも身にしみて感じたのはキャンパスがある川崎市という土地の寒さだった。北海道を始めとする、雪の降る地方に住む方々には軟弱だと叱られるかもしれないが、日本国内でも屈指の温暖な地・静岡出身者にとって、お隣の神奈川県がこんなにも気候の違う場所とは想像がつかなかったのだ。

 こんなオレにとって厳しい三度目の冬を迎えた十一月末、所属する農学部農学科園芸学第Ⅱ研究室・通称園Ⅱ研の担当教授である天総一朗先生が「創、三曲の定期演奏会につき合ってくれる?」と持ちかけてきた。

「三曲って何だっけ?」

「あらやだ、前に説明したじゃない。邦楽の演奏をやっているサークルよ。箏に尺八に三絃の三つを合わせて三曲、つまり日本の和楽器を使って演奏する音楽。あなたの得意ジャンルの、洋楽に対する邦楽って意味じゃないからね。いくら自分がサークルには所属していないからって、アタシの担当ぐらいは覚えておきなさいよ」

 ああ、そういえばと、オレは納得した。学生会館にある各サークルの部室から時折箏の音が流れてくるのを耳にしたけど、三曲の部員が練習していたのか。

 神明大に数多く存在するサークルの中で先生が顧問として受け持つのは体育会系であるはずもなく、もちろん文化部系、茶道部と三曲研究部だ。ゲイでオカマという特異なキャラ、神明大の名物教授を顧問に据えた二つのサークルの活動はどうなっているのかと問えば、顧問の仕事は何かの機会に名前を貸すだけで実際の指導は学生に依頼された専門の師範が行っているとのこと。例年この時期に一年間の活動を締めくくる定期演奏会が催されていて、当然顧問のところへも御招待の案内がくるというわけだ。

「オレ、ハードロック専門だから邦楽なんてわかんねえよ」

「聴かず嫌いしないで、後学のために聴いておきなさい。もっと大人としての教養を身につけなきゃ」

 はいはいと嘆息混じりに返事をする。毎度セクハラやパワハラを──大学の場合はアカハラっていうんだっけ? ──受けているのに、オレはこの先生に逆らえず、どこでも御供をしてしまう。

 なぜかと訊かれれば、単位がかかっているから、だけではなく、こんなタメ口をききながらも尊敬しているから。ゲイだろうがオカマだろうが、先生はオレたち学生にとって、あらゆる意味で誇れる存在なのだ。そう、あらゆる意味で──

 さて演奏会当日、黒い厚手のジャケットを着込んだオレは派手好きな先生の金色のコートに度肝を抜かれながら、会場である東京中央文化ホールへと早めに出向いた。

 学生の団体が廉価で借りられるとあって、どちらかといえば古い建物の部類に入るこのホール、案内の看板だけは立派だが、グレーの外壁には黒っぽいシミや、苔のような暗緑色の汚れが付着していた。

 案内のチラシには開場午後四時・開演午後四時三十分とあるけれど、早くも観客たちの姿がチラホラ見える。大半が他の大学の邦楽系サークルに所属する学生で、お互いの演奏会に招待したりされたりの関係、暇を持て余しているのか早々に到着して油を売っていた。

 演奏会開催にかかる費用は部員たちが自己負担するため、入場は無料。従って受付の必要はないと思うんだけど、正面玄関を入ってすぐのフロアに長机が置かれ、白いブラウスに黒いロングスカートという略礼装をした女子部員たちがプログラムを配り、芳名帳への署名を促していた。結婚式の披露宴受付なんかでやっているアレだ。

 で、毛筆ペンを手にした先生はスラスラと達筆を披露、まるで世界の珍獣を目の前にしたような顔で、このド派手な教授をおっかなびっくり眺めていた受付三人組だが、続いてオレが記名したとたんに「あーっ」と声を上げた。

「な、何か?」

「農学部の加瀬創さんって噂どおり。マジでイケてる!」

「あ、あはは、どうも」

 褒められているのに恐縮してしまうオレ、部内の農学部の誰かから話を聞いていたんだろうけど、女子大生たちの目がハート形になると同時に、隣に立つ四十路オヤジの目が三角になった。

「ふうん。川崎キャンパス・ナンバーワンイケメンの噂は文系の皆さんの耳にも届いているってわけね。創クン、今とーってもイイ気分なんじゃないの、よかったわねぇ~」

 あー、イヤミったらしい。中年オカマの嫉妬は見苦しい。

 言い訳も反論もバカバカしいので黙っていると、三人のうちの一人が先生に話しかけてきた。この三人は全員一回生で、受付という下っ端の仕事を任命されたらしい。

「私、法学部の一年で、天先生にお目にかかるのは初めてなんです。三曲の顧問の話もつい最近になって知りました。あの、想像していたよりもふつうの方っていうか……とてもお若いし、ハンサムなんですね。感激です」

 名物オカマ教授の存在は大学中に知れ渡っているみたいだけど、学部も校舎も違えば講義を受けることもないから、お目にかかる機会もないのは当然だ。

「あら、そう? ありがと」

 金ピカのコートを羽織ってニッコリと妖しい微笑みを返すこの人がふつうの方か? まさかいつも女装しているとか、ばっちりメイクしていると想像していたんじゃないだろうな。勘弁してくれよ。

 次に文学部に在籍しているという女子学生が「加瀬さんは天先生のゼミなんですよね? 先生がグッドルッキングガイをはべらせているって、加瀬さんのことだったんですね」などと訊いた。

 はべらせているって、誰がそんないい加減な噂を流したんだ? オレはただ御供しているだけ……って、やっぱり「はべっている」ことになるのかな? ちょっと弱気になる。

 そもそもだ、この大学においてゼミという表現を使うのは文系で、理系は研究室って呼ぶんだよ、よく覚えておけ。

 ちなみに川崎のキャンパスは理工学部と農学部、文系学部のキャンパスは都内にあるため、ふだんは文系の連中との接点はなし。サークル活動に参加していなければ、お知り合いになるチャンスというのも、まずない。もっとも、サークルのジャンルにもいろいろあって、川崎は理系に偏ったサークルが多く、三曲のように文理両方に支部があるところは少ないのではと思う。先生曰く「麻雀&パチンコ部」のオレにはそれ以上詳しいことはわからないけれど。

「授業で農作業っていうか、田植えとかやるんですか?」

 農場と温室はありますが、田んぼはありません。

「牧場は? 牛や豚を飼ってるの?」

 残念ながら牛や豚もいません。千葉にある付属農場にはいるけど。

 都会のお嬢さん方から矢継ぎ早に質問が飛ぶと、我らが先生は社交辞令なのか何なのかわからないセリフを口にした。

「よろしかったらキャンパス見学とアタシの講義を受けにいらしたらいかが? 履修単位にはならないけれど、植物の神秘はある意味、文学的かもよ」

 若くてハンサムって言われたことに気をよくしたのかな。たしかに四十代には見えないし、美男子の部類だけど……単細胞だ。

「えーっ、学部が違う人は入っちゃいけないんじゃないですか?」

「そんなことないでしょ、ねっ?」

「ねっ?」って、いきなりこっちに話を振られても困る。教授のくせに知らないのかよ。

 オレは首をかしげながら「さ、さあ……」と語尾を濁した。

「二週間前ぐらいだったかなぁ、理工学部に泥棒が入って薬品盗まれたとかで、それから出入りのチェックが厳しくなったって、先輩が話していましたけれど」

「たしかに盗難事件はあったし多少は厳しくなっているけど、警備員に学生証を提示すれば、校舎の方は大丈夫じゃないかしら?」

 それから先生は三人目の経済学部生という部員に目をやった。髪型はロングという女性が多い中で、ショートヘアーの彼女は耳元がすっきりと見えるが、そこには半透明の小さなボタン状のものがポツリとついていた。シリコンピアスという名称で、実物のピアスをはずしている間に、穴がふさがらないようにするためのものらしい。

「あら。あなた、演奏会にそれをつけて出るの?」

 先生も右耳にダイヤのピアスをしているので──ゲイの象徴だとか。さすがと言うしかない──他の人のものが気になるらしく、そう訊かれたショートヘアーの経済学部は自分の耳に手をやりながら、アクセサリーは禁止なんですと説明した。楽器を傷つける恐れがあるということで、演奏会はもとより、練習中もはずすようにと命令が下り、それが部則でも承認されたとか。つまりサークルの活動時間内にアクセサリーの類をつけるのは規則違反となる。

「時計や指輪はともかく、ピアスが楽器に直接触れるとは思えないけれど、それでも禁止なのね」

 すると三人は顔を見合わせ、何か言いたげにもじもじした。

「どうかしたの?」

 口にするのは憚られるけれど、言わずにはいられない、いちばんおしゃべり好きな文学部が声をひそめて「金属アレルギーの先輩がいるんです。ワタシたち後輩がアクセつけてるのが気に入らなくて、それで全部禁止にしたのよ」と耳打ちした。

「あらまあ、とんだトバッチリね」

 そうこうしているうちに、後ろに列ができてしまった。慌ててその場を離れ、観音開きの扉を開けて内部へと向かう。

 ここはホールとしては中規模程度のところだろう。ペールオレンジの間接照明に照らされて象牙色に光る周囲の壁、前方には古めかしい濃紺の緞帳が重く垂れ下がり、そのせいか雰囲気が暗く感じる。

 客席はざっとみて三百程度、きっちりと並んだ臙脂色の群れは前後に分かれ、縦方向にも三つに分かれている。全部で六区画、既に黒い影がぽつぽつと散らばっていた。

 後方にいくにつれ、座席の位置が次第に高くなるのは映画館などと同じで、たいていの人はこの、後列のやや真ん中あたりを好んで座りたがるんだけど、そこは変わり者の先生のこと、真正面の区画のど真ん中、しかも前から数えて三列目を陣取った。

 一列目と二列目は録音や写真などを担当するスタッフ席なので、観客が座れるのは三列目以降とされている。もしも一列目から空いていたら、絶対そっちに座るって言い張っただろうなと思った。

「ちょっと前すぎやしねえ? プレッシャーになるんじゃ……」

「いいのよ。アタシたちがここに座っているぐらいで失敗するようじゃあ、たいした演奏じゃないわ」

「そりゃまあ、そうだけど」

 テコでも動きそうにない。仕方なく隣に座ってジャケットを脱ぐと、さっき貰ったプログラムを開いて目を通す。おっと、いきなり顧問の祝辞が載っていた。演奏会の開催を祝う、ごく平凡な文体に拍子抜けする。

「何だよ、当たり前っていうか、常識的なこと書いてるじゃねえか」

「くれぐれも変な文章を書かないように、学長に釘を刺されたのよ」

 その行動から言動までもが要注意人物なのだ、学長自らのチェックが入るほどに。不貞腐れた、面白くなさそうな様子がオレにとっては却って面白い。忍び笑いをしながら次の欄を見やると、部長の挨拶文だった。経済学部三回生・島村譲(しまむら ゆずる)と記されている。

「部長はオレとタメか」

「そうよ。このサークルの運営は執行部と呼ばれる三年のメンバーで取り仕切っているの。四年も部員として名前だけは連ねているけれど、活動に参加するしないは自由で、ほとんどOB扱いね」

 定期演奏会が執行部最後の大仕事で、これが終わると二年にバトンタッチして引退するという流れのようだ。

「島村くんはこの前、アタシのところへ挨拶に来たわ。パッと見は気取ったインテリっぽいけど、話をすれば感じのいい子。なかなかのイケメンよ、あなたには負けるけれど」

 このテの軽口には慣れっこだ。「お褒めの言葉をありがとうございます」などと慇懃無礼とも取れる返事をしたあと、視線を次に移すと曲目と演奏者が順番に印刷されていたが、部員の名前と学部、学年を参照すると、この順番が必ずしも学年順ではないとわかった。一年の演奏に始まってはいるけれど、二年三年はゴチャ混ぜで、学年を越えて組んでいる人もいるし、四年でも多少の参加はある。

「担当する楽器とか、演奏したい曲の好みもあるから、誰が誰と組むかは互いの駆け引きなんじゃないかしらね」

「本番までずっと一緒に練習するんだから、キライなヤツとは組みたくないのが当然だろ。それにしても、ここに載っている曲がいったいどんなものなのか、オレにはまったく見当がつかないんだけど」

「春の海ぐらいは聴いたことがあるでしょう? お正月がくると真っ先に流れる、箏と尺八の超有名な曲よ。ただ、素人でも知っているタイトルを敢えて選ぶ度胸のある部員はいないみたいだけどね」

 先生が口ずさむフレーズはたしかに聴き覚えがある。初詣やおせち料理のコマーシャルが思い浮かんできた。

「そうね、一口に邦楽といってもいろんなジャンルがあるし、最近は洋楽器とセッションしたり、独自の路線を提唱したりしている若い演奏家も増えているけど、とりあえずはこのサークルで演奏している曲について説明しておこうかしら。何も知らずに聴くより、多少でも知識のある方がいいでしょ? まずは楽器についてね。このサークルで扱われているのは箏・尺八・三絃ってのは話したわね。絃が三本だから三絃で、三味線と呼ぶ方が一般的ね」

 開演までの時間を利用して、先生によるレクチャーが始まった。この人の守備範囲の広さにはいつもながら感心する。

 三味線は演奏する曲別に種類があり、ここで使われている三味線は地唄用で、よく聞くネコの皮ではなく、津軽三味線と同じイヌ皮を張っているそうだ。糸は絹製で、こいつを撥でベベンとやるからすぐ切れる。

 尺八の名前の由来は一尺八寸の長さから。ただし、長さが一尺六寸で音域の高い六寸管という種類や、逆に長くて音域の低い長管というのもあるらしい。プラスチック製のものもあるが、やはり自然の素材である竹がベストで、タケという略称が使われる。

 箏は琴と表記される方が多いみたいだけど、和楽器に関わり、こだわりがある人は箏の文字を使う。その絃は十三本でかなり太く、昔は絹製だったが、現代はさすがにナイロン製が主流。中が空洞になった木製の胴体の端と端を繋ぐように張り、箏柱と呼ばれる小道具でその張り具合を調節し、音階を定める。糸を弾くのは象牙と革で作られた箏爪を使うけど、象牙って、たしか今は取引しちゃいけない代物だよな、代用品が出ているのかな。

 箏に箏柱、箏爪と、それをはめる三本の指──親指、人差し指、中指──そこまで連想したとたん、身震いがきた。脳裏にまざまざと甦るのはレンタルDVDで観た三十年ほど前のドラマのワンシーン、日本の本格ミステリ史上に燦然と輝くあの巨匠の作品だ。それはまた、日本を代表する名探偵のデビュー作でもある。

 古今東西の本格物を愛してやまないミステリマニアである先生の影響で、オレはお薦めの作品の文庫本を手にとるようになった。

 読書なんて小学校で強制的にやらされた『読書週間』以来だと思うけど、お蔭ですっかりハマッてしまい、最近はそれらを原作として、一大ブームを巻き起こした映画やドラマのDVDを借りるのが日課になっている。

「今、アレを思い浮かべていたわね?」

 いたずらっぽい眼差しを受けてドキリとする。この人には人並みはずれた洞察力があるから隠し事はできない。

「しんしんと積もる雪、深夜に響く、箏をかき鳴らす音、不気味に回る水車、石灯篭の根元に突き刺さった日本刀って、あなたもすっかりマニアね~」

 芝居がかった口調に苦笑いしながら「いや、別にマニアってほどじゃ」と答えると「望ましい傾向だわ」とのコメント。さらに「アタシの行く先って、なぜだか殺人事件が起きるからねぇ。ここも危ないかも」と、オレの耳元でこっそり囁いた。

 映像はもちろん衝撃的だけれど、現実の殺人と比べられるはずもない。そんな現実の殺人事件に首を突っ込み、こともあろうに探偵役を買って出たのがこの先生で、行きがかり上、助手を務めるはめになった経験のあるオレはニヤニヤと笑う相手を慌てて諌めた。

「縁起でもないことを言うなよ。本当に起きたらどうするんだよ?」

「あら、冗談だって。そうムキにならないでよ。こんなに大勢の人前で日本刀振り回す犯人がいると思う?」

 いくら例の名作の話をしていたからって、現代の日本において、そいつは特殊すぎる凶器だろうが。

「日本刀じゃなくても、殺人の方法はいくらでもあるんだからな」

「それはそうよね。ごめんあそばせ」

 オレの心配をよそにあっけらかんとしているが、冗談だと言われてもなぜか不安が拭えなくなってしまった。

 その後、残念ながらイヤな予感は大当たりしてしまうのだった。

                                 ……❷に続く