MY MEMORANDUM

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サファイアの憂鬱 ❿(最終章)

    エピローグ

 昨日来た道を再び走る。

 指定席である総一朗の車の助手席で大きく伸びをした創は「あーあ、惜しかったな、二千万円」と残念そうに言った。

 暗号は解読されたが、手元に残ったのはサファイアの偽物のみという結果に終わってしまったのだ。

「バイト免除の優雅な学生生活は露と消える、か。まあ、すべて元通りってことで、しょうがないかぁ~」

「人間の欲望には限りがないものよ。夢や希望を持つのは大切だけど、今の生活がある幸せを忘れてはいけないわ。大学まで進学させてくれたご両親に感謝しなさいね」

「いつだって感謝してるよ」

「だったらもっと勉強しなさい。ちゃんと講義に出席して、パチンコはほどほどに。カヤマユウゾウのままじゃダメよ」

「ちぇっ、また説教かよ。はいはい、わかってますって」

 林の中には相変わらず放置車両が点在していた。

 ここで騎士は女王様が到着するのを忠犬のように待ち続けていたのだ。

 愛する女に尽くすため、その手を血に染めることを覚悟して。

 だが、男は庭道具の入った物置で殺された。決して善人ではない小悪党だが、あまりにも憐れな最期であった。

 忠犬を失った美人女優。

 直接手を下したわけではないにしろ、事件が明るみになった以上、もう二度と日の当たるところへは出られないだろう。

 ライバルへ向けた憎悪がこんな形で撥ね返ってきたのだ。人を呪わば穴二つ、という諺が思い浮かぶ。

 そこまでの憎しみを一身に集めたアイドルはあの世で我が身の愚かさを反省しているだろうか。いや、懲りずに神様か閻魔様をネグリジェ姿で誘惑しているかもしれない。

 我が世の春を謳歌した人気作家。

 自分の誕生日パーティーで招いた悲劇とは皮肉な結末だった。

 幼稚な遊び心が高じて、大切なものを失くしてしまった男がこの先、どうなってしまうのかは知る由もないし、どうなろうと知ったことではないという気にもさせられる。罪を犯したわけではないが、一番罪深いのはその人ではなかったか。

 そして──

「なんかさぁ、物悲しいっていうか……やるせないって気持ちになるよな」

 青いレプリカを手慰みにしながら、創が物憂げにそう言うと、

「そうね」

 素気無く答えて、総一朗はダッシュボードから取り出したサングラスをかけた。

 そんな様子を横目で見たあと、創はずっと抱いていた疑問を口にした。

「もしかしたら、あれ、わかってたんじゃないのか」

「何が?」

「薫さんが自殺するつもりだったこと」

 薫が青酸カリのカプセルを隠し持っていて、それを服毒すると予想がついてなお、総一朗はその行動を敢えて見逃したのではないか。

 警察や登志夫たちの前では訊けなかったが、二人きりの今なら問い質せる。

「止めるべきだったかもしれないわね。生きて罪を償うのが犯罪者の正道だって、百も承知しているわよ」

 でも、と総一朗は語尾を濁した。

「アタシには止められなかった。あの人が背負ってきた十字架を一番わかってあげられるのはアタシだもの」

 車は別荘地を抜け、スカイラインへと合流した。昨日と同じ、明るい残暑の日差しが降り注ぐ。

「あの人はいずれ死ぬつもりだった。今回の事件が引き金になって死期を早めてしまったけれど、それなら連続殺人犯としての死刑判決や、世間の心ない罵声を浴びる前に、死なせてあげてもいいんじゃないかって。死刑になるとは限らないけど、生き続けるのはもっと辛いでしょう」

 総一朗の言葉には重みがあった。

 それが最善と言ってはいけないかもしれない。だが、そうするしかなかったのだと。

 生きて、償って、やり直しましょうという励ましがどれだけのものになるのかと。

 所詮、第三者の上面の激励など、当事者にとってはキレイ事、虚ろな言葉としか響かないのだと。

 薫を真犯人だと指摘する前に見せた、総一朗の苦悩の色はそこまで慮っての思いの表れであった。

「自分の進退、か。二人の関係がこの先、一生続くという保障はないもんな。やっぱり、三島先生の傍に居続けることに限界を感じていたのかな」

「秘書として、息子をサポートしてやって欲しいだなんて、社長さんも残酷なお願いをしたものね」

 それ相当の給金を用意して、秘書という職を紹介することが可愛がっていた事務員への、若くして夫に先立たれ、自分自身も病魔に倒れた不幸な女性への思いやりだった。その心配りがこんな悲劇の結果を招くとは、三島社長には見当もつかなかったであろうが無理もない。

 まさか互いの息子が、この二人が愛人関係に陥るなんて──

「もしも先生に再婚なんかされちゃったら、薫さんの性格じゃ、一緒にいるのが耐えられない。オレにもわかるよ」

「絶対に言っては貰えない、言われるはずもない、結婚してくれって。それなのに、あとからのこのこと登場した歌純と彩音は軽い気持ちで、いとも簡単に『立候補していいですか』って言えるのよ」

 総一朗は我が事のように歯軋りをした。

「それは二人が女だから。なんたって日本は男同士の結婚が認められていない、ゲイ後進国ですからね。諸外国に比べて随分と遅れをとっているのが歯がゆいわ」

 諸外国の同性婚事情について詳しいわけではないが、婚姻が許可されている国が幾つかあるという知識ぐらいは創も持っている。

「それにしたって悔しいじゃないの。あのときの薫さんの気持ち、同じゲイとして、すっごくよくわかるのよ」

 あるいは歌純が遊びで監督と寝たり、チンピラと関係したり、ライバルの殺人計画を立てたりなどしない、宣昭の妻にふさわしい貞淑な女だったなら。

 あるいは彩音がたくさんの男を渡り歩いた末、今つき合っている男の目を盗んでまで、金と名誉を目的に、別の男を誘うような多情な女でなかったなら。

 宣昭の前に現れた女たちが財産目当てなどではなく、本気で愛していると言うのなら、あきらめがついたかもしれない。

 しかし、それぞれの欲望を露わに、つかみ合いまでして醜い争いを繰り広げる女二人に、大切な人を譲るわけにはいかなかった。

 両親の形見のサファイアまでも、とくれば尚更だった。

 

『アタシ、立候補しちゃってもいいですかぁ?』

 

『アタシ、その青い石がすっごく気に入っちゃったの。ねえ、センセイ、いいでしょ?』

 

 あの時の、思いもよらない彩音の発言が薫の背中を後押しした。

「自殺まで考えていた人を『殺してやる』って気持ちにさせてしまったあの女にも問題ありよ。死者に鞭打つ気はないけど」

「そりゃ金持ちだし、有名な作家だし、そこらへんの男よりは値打ちがあって手放したくない、サファイアを含めて、つまんない女に渡したくないって気持ちはわかるけどさ」

 創は唇を尖らせながら続けた。

「だけど、いつもいいようにこき使われてたじゃないか。目の前で女とデレデレしたり、おまえは黙ってろみたいな言い方されたり。あんな酷い扱いを受けてまで、黙っておとなしく従うことなんてなかったのに」

 とっとと秘書を辞して、調理師として働く。その腕前は一流、どこの店でも雇ってくれるだろう。異性愛者に比べればパートナーは見つけにくいだろうが、あれだけの美貌の持ち主なら大丈夫だ。

 まだ若く、いくらでもやり直せる機会はあった。宣昭とは決別して新しい道を歩もうとすれば、何とでもなったはず……

 総一朗は軽くかぶりを振った。

「そういう理由だけじゃないわよ。誰かを愛するって気持ちは簡単には割り切れないもの。あんなしょうもない男でも、薫さんにとっては大切な人だったのよ」

 いい齢をして無邪気なままの将軍様を見つめる薫の心情は子供を見守る母の、母性愛にも似たものだったのかもしれない。

 この人を支えていこう、そんな一途さが薫を今日まで突き動かしていたのだ。

「それだけ三島のおっさんに惚れてたってわけか。それにしたって、この事件は積もりに積もった我慢が爆発したようなもんじゃないか。どうしてもっと早く怒らなかったんだろう、そうすれば殺人までは招かなかったとオレは思うぜ」

「怒りをぶつけるか、さっさと見切りをつけるか。あの人にはどちらもできなかった、そのせいで、ずるずるとここまで来てしまったのね」

「腐れ縁ってやつなのかな」

 創の言葉に、総一朗はそうね、と相槌を打った。

「両刀使いって、冷たい性格の人が多いんだって。たしかにそうよね、毎日あんな態度を取られたら、アタシならボコボコにブン殴っちゃうわ」

 こいつだったら、ブン殴る程度では済まないだろうと思いつつ、創は総一朗の横顔を見つめた。

「怒りの矛先は女たちではなく、三島宣昭自身に向けるべきだったわね」

「そういうこった」

「あなたも気をつけないと」

 いきなりこちらに話を振られて、創はきょとんとした。

「はあ?」

 わざわざサングラスをはずした総一朗は訝る創にウィンクをしてみせた。

「ゲイは一途で情けが深いのよ。その代わり、復讐心も強い。せいぜいアタシを怒らせないようにすることね」

「何でオレが?」

「アタシに気に入られたのが運の尽き、じゃなくてラッキーだったと思いなさい、加瀬創クン。コトと次第によっちゃ、血の雨が降るわよ」

「かっ、勝手なこと言うなっ!」

 ぎゃあぎゃあ喚く創の横で、総一朗の高らかな笑い声が響いた。

「さて、みんなと合流するわよ。ちょっと飛ばすから、シートベルトはきちんと締めて、しっかりつかまっててね」

 今度こそゼミ旅行だ。

 銀色の車体は伊東の海辺に向かう道へと進路を取った。

 岩場、砂浜、白い波頭、真っ青に澄んだ海が目の前に広がる。

 その深く、透明な蒼さは悲しみを集めたサファイアの輝きにも似て──

                                  ──了