Ⅷ
「この身に免じて……か。薫さん、覚悟していたんだな」
薫の遺体が運び出され、その後のこまごまとした作業が慌ただしく続く現場をぼんやりと眺めながら、創はそう呟いた。
「自分の進退を決めるために、って言ってたでしょ。事件が起こらなかったとしても、いつかはそうするつもりだったんじゃないの」
「そうか……って、あれ、元に戻ってる?」
素っ頓狂な声を上げる助手をジロリと見ると、総一朗は鼻白んだように「何が」と問い返した。
「だから、ほら、さっきは僕とか、普通にしゃべってたじゃないか。何でオカマに戻っちゃったんだよ、あの方がずっとカッコよかったのに」
「あれは名探偵限定バージョン」
「何だよ、それ」
「アタシがさっきの調子でしゃべってごらんなさい。どう見ても普通の男、それも並外れたイイ男ってことで、女の人にモテモテになっちゃうでしょ? それじゃあ何かと都合が悪いのよ。オカマでいる方が気楽なの」
ゲイである以上、女性にモテてしまうのは迷惑だと言う。女性たちを遠ざけるために、オカマを演じているということらしい。
呆れ返った創は「モテモテだって? 厚かましいにも程があるよな」と嫌味っぽく言い放った。
「四十のオヤジがいい気になってんじゃねえよ」
「ナイスミドルと呼びなさい」
「それって死語じゃないのか」
「ゴチャゴチャうるさいわね」
二人がくだらない言い争いをしていると、吉田警部がやって来た。
「この度はいろいろとご協力ありがとうございました」
頑固一徹な男もオカマ探偵の実力を認めたらしく素直に頭を下げ、続いて相良警部補も「先生のお力添えで、事件は全面解決となりました。大変感謝しております」と言い、握手を求めた。
「どういたしまして。また何かありましたらご連絡くださいね。いつでもどこでも駆けつけますから」
そう言って愛嬌を振り撒く総一朗に、どこまで本気なのかはわからないが、二人は真顔で「はい、そのときはよろしくお願いします」と答えた。
「それでは皆さん、失礼します。お気をつけてお帰りください」
事情聴収のため、歌純が連行された。また、宣昭も参考人として署への同行を求められ、背中を丸めた二人は刑事たちと共に重い足取りで別荘を出て行った。
華やかな人生を歩んできた女優と、富と幸運に恵まれて、自由気儘に生きた作家の悲しい末路を皆で見送る。
その後姿が扉の向こうに消えると、創は総一朗に向かって「大学教授辞めて、探偵業でも始める気かよ。いつでもどこでも駆けつける、なんて調子のいいこと言っちゃってさ」と訊いた。
「そうなのよ」
こちらもどこまで本気なのか、総一朗はニヤッと笑うと「マジで探偵になっちゃおうかしら、名探偵を演じるのってなかなか楽しいわ。クセになりそう」とのたまった。
「警察からの要請で動く探偵なんて、ミステリの読み過ぎ、ドラマの観過ぎ。だったら岡部監督にオカマ探偵の映画を撮ってもらうんだな。映画の中の、架空の世界なら、どうぞご自由に」
「警察からの要請はなくても、探偵の評判を聞きつけた依頼人が来るってパターンはよくあるわよ」
「その考え方がバーチャルだと思うけど」
肩をすくめた創はそれから、ソファに残る人々の方を見た。
あとを任せられた何人かの捜査員が残っているので、退去してもかまわない。今後も連絡がつくようにと、電話番号その他は書き控えてあるから、いつでも自宅に帰ってもいいと言われたものの、四人はなかなかソファから動こうとはしなかった。
「ねえ、総一朗さん」
「なあに?」
登志夫はもじもじしながら「事件は解決しました。お蔭で我々の嫌疑も晴れましたが、納得いかない点が……」と言いにくそうに切り出した。
「ああ、あれね」
事も無げに答えると、総一朗は残された四人の──彩音、歌純、宣昭、そして薫。昨夜からこれだけの人がこの場から姿を消したのだ──表情を探るように見回した。
「皆さん全員、降参かしら?」
良太と唯、圭介は互いに顔を見合わせてから「はい」と同時に答えた。
「タイムリミットのお昼を過ぎたことだし、じゃあ、解答権はアタシと創に移ったと認めていいのね。まあ、今となっては虚しい宝探しだけど」
二千万円を提供してくれるパトロンはいなくなってしまったが、暗号の謎をそのままにしておくのも悔しいと思う気持ちは創も同じだった。
警察の捜索にも関わらず、レプリカが偶然という形で発見されることはなかった。宣昭が隠した『蒼い堕天使』の偽物はこの建物のどこかに隠されたままなのだ。
「それじゃあ、暗号の復習からいきましょうか。創、メモはここよ。皆さんもよろしかったらご一緒にどうぞ」
登志夫たちもめいめいに自分が記したメモ用紙を取り出した。
美の傍らの青い石が憂鬱を救う
「僕は独り ただ一人 孤独な毎日 寂しい日々」
『貴方はいない ここには居ない』
「友もいない 仲間も居ない 悲しい毎日 寂しい時間」
「もう泣かない 今は 貴方の傍に 私がいるから」……
「あー、何遍読んでも意味不明だ。本当にこんなのがわかったのかよ」
「もちろんよ。昨夜、寝る前にササッと解読したわ」
二十分もかからなかった、と総一朗は豪語した。
昨日までの創なら「また、ハッタリだろ」などと揶揄したかもしれない。だが、オカマ探偵の実力を見せつけられた今は信じる気になっていた。
「まずはすべての文字をひらがなにしてごらんなさい」
総一朗の指示に、創を含めた五人は不審そうな様子を見せた。
「ひらがな? 何でまた」
「漢字は関係ないのですか? 一人と独り、なんて凝った使い方がされているのに」
「それはヒッカケよ」
総一朗はにべもなく答えた。
新しいメモ用紙とペンを用意して、とにかく言われた通りに、ひらがなにしてみる。
「びのかたわらのあおいいしがゆううつをすくう……だろ」
「それが終わったら今度はローマ字に変換してみて。大文字小文字は関係ないから、どちらを使ってもいいわよ」
「BINOKATAWARANO……と」
地道な作業が続く。
「かの江戸川乱歩が提示した暗号の分類種別に照らし合わせると、アタシが思うに、これは代用法に分類されるんじゃないかしら。あ、寓意法の要素もあるわね」
総一朗は暗号に関するうんちくらしきことを述べているが、創には当然ながら、ちんぷんかんぷんだった。
「さて、創クン。何か気がついたことはない?」
「気がつくって言われても……」
暗号がローマ字になって、ますますわけがわからなくなったらしく、登志夫は眉間に皺を寄せて難しい顔をしている。
あとの三人はほとんど投げやりだ、二千万の値打ちがなくなった以上、もうどうでもいいと思っているのかもしれない。
「BINO……だろ、SABISHIIJIKAN……」
「もう泣かない、って、前後のつながりから考えると、何か不自然な言葉じゃない? アタシはここが変だと思って、そこで隠された意味に気づいたのよ。普通だったら何という言葉を続けるかしら?」
「もう泣かないで、でいいかな? 『泣かないで』『なかない・で』『NAKANAI・DE』……あっ、そうか、わかった!」
創は興奮して叫んだ。
「Eだ! この暗号に使われてる文字は母音のEがひとつもない! Eが入るから『DE』、つまり『で』の字は使えないんだ!」
「はい、ご名答」
総一朗はにっこりと微笑んだ。
「そこに気がつけば、代用法の部分ではまず合格ね。そうね、優・良・可・不可の四段階では……」
「そういう評価はやめてくれよ。オレの成績がカヤマユウゾウ(大学の四段階の成績評価において、可が山のようにあって、優が三つぐらいしかないという意)なの、わかってて言ってるんだろ」
「だから後期は頑張って勉強しましょうね。これでも励ましているのよ」
「ちぇっ」
唇を尖らせた創はさらに、Eがない理由を考えようとした。
「Eってのは日本語の母音では『エ』だ。エがひとつもない、エ、え……絵? これって絵画の絵の意味?」
総一朗は拍手をして創を褒め称えた。
「素晴らしいわ、良の段階までいったわよ。さて、ここからは寓意法ね」
絵が、絵画がひとつもないという意味なのだろうか。それなら正反対だ、この建物には骨董品と並んで、絵画の類が満ち溢れているではないか。
「文章に戻って、内容を考察してみて」
「えー、何かヒントをくれよ」
「しょうがないわねぇ。じゃあ『私』を隠してあるレプリカと考えてみたら? 擬人化してあるのよ」
「私って、最後に出てくるヤツか。じゃあ、タイトルの青い石も私のことだな」
「ええ。どうしてサファイアという言葉を使わずに、青い石という表現にしたのか。隠してあるのが本物のサファイアじゃなくて、レプリカって理由もあるけど、サファイアはSAFAIAではなく、本当の英字の綴りはSAPPHIREで、Eが入ってしまうから使えない。そこまでこだわったのね」
なるほど、と登志夫が唸った。御当人の昨夜の検討はまったくの的外れだったと見受けられる。
「私は貴方の傍にいるって言ってるから、この貴方も擬人化されてると考えて、貴方にあたる何かのところに隠してあるんだ。じゃあ、貴方が絵なのか? 絵の後ろに隠してあるの? ンなわけないよな、これだけいっぱいあったら、どの絵が貴方に該当するのか、特定できやしねえ」
「だから、貴方イコール僕は絵画ではないのよ。絵がひとつもない、というより、絵がない、絵ではない。あら、またヒントをあげちゃった」
「絵じゃないの?」
創は文章の再検討を始めた。
美とは美術品の美を表している。従って僕は絵画以外の美術品だ。
そして僕は友も仲間もなく、一人で孤独に過ごしている。孤独ということはつまり、まわりには仲間と呼べる、その他の美術品は何も置いてないという意味か。
二重カギ括弧のセリフは僕でも私のものでもない、第三者の言葉ゆえに括弧の形を変えてある。
第三者は単数か複数か、恐らく複数なのだろう、その正体は別の場所にあるたくさんの美術品たちで、孤立した僕を憂いている。
さらに孤独を訴える僕の元に私がやってきて、傍にいるからと励ましている。レプリカを隠したことにより、僕は独りぼっちの憂鬱から解放されたのだ。
「絵じゃなくて、それだけ単独に置いてあって……絵じゃなくて……」
創は呪文を唱えるように、同じ言葉をぶつぶつと何度も呟いた。
すべての客間には油絵と骨董品がそれぞれ一品ずつ飾ってあった。
宣昭の書斎と寝室、薫の寝室も確認してはいないが、同じ状態だと宣昭自身が語ったのをおぼえている。
このリビングこそが第三者であるたくさんの美術品が集う部屋、キッチンにもそれらは溢れていた。だが、ただ一箇所、そうではない場所がある──
「……わかったぞ!」
創は勢いよくホールに飛び出た。そこにいた捜査員たちが何事かとこちらを見る。
登志夫たち四人も、そして総一朗もやって来て、みんなが見守る中、創は玄関の飾り棚に掛けてある額縁を指差した。
「他の骨董品や絵画とは離れて、ここにひとつだけある。そんでもってこいつは……」
そこで創は大きく息を吸い込んだ。
「絵ではない、写真だ! 堂ヶ島の風景の写真なんだ。写真は建物中でこれひとつ、絵ではない僕の正体は額縁に入った写真だったんだ!」
どよめきとも溜め息ともつかない声がギャラリーから漏れる。満足そうに創を見ていた総一朗は「それじゃあ確認してみて」と促した。
「うん……」
恐る恐る手を伸ばして、創は吊るしてあった金具から額縁を取りはずした。
裏返しにしてみる。木枠の真ん中に黒い、小さなビニール袋がテープで貼りつけてあり、それを取って中身を確認すると、
「……あった!」
サファイアのレプリカだった。
その青い輝きは本物には到底及ばない。が、創には実物の『蒼い堕天使』以上に美しい宝石に思えた。
「やったわね、創。これで優を獲得、名探偵の助手資格試験に合格だわ」
いつの間に資格試験扱いになっていたのかと思いつつも、創はうん、と力を込めて頷いた。
「いやあ、ホントにスゴイ。創くんは充分に総一朗さんの片腕が務まりますよ。私なんぞ、さっきから一緒にヒントを聞いているのに、まったく解らなかった」
登志夫が感心してそう言い、さらに「それ以上にスゴイのは総一朗さん、あなただ。今回の事件の犯人もトリックも、暗号までもすらすらと解いてしまった。いったいどういう頭の構造をしているのか、知りたいものです」と讃えた。
総一朗のヒントがなければ、暗号を解くのは絶対に無理だった。登志夫の言うとおり、本当に凄い人だ。創はさらなる尊敬の眼差しを総一朗に向けた。
「セレブ探偵・バーサス・オカマ探偵はオカマの勝利かしら」
総一朗はにこりともせずに言ってのけた。
「こう言っちゃ失礼だけど、三島先生は誰にも宝をあげるつもりはなかったのかもね」
「はあ。私もそう思います」
暗号と宝探しは宣昭によって、あらかじめ用意されたものである。総一朗と創がここに来るという偶然がなければ、暗号を解読できる者は誰一人としていなかったはず。招待客の誰にも解けないと見越した上での難題であり、ミステリにおける謎を構築できる、己の優秀な頭脳を誇示しようという幼稚な自己主張なのだ。
登志夫たちの賛辞、歌純の尊敬を獲得して悦に入りたいという思いでいっぱいだっただろうし、みんなが降参して、謎解きがタイムアップとなったあと、何か上手く理由をつけて、それをお気に入りの女優の手に渡してやろうとでも考えていたかもしれない。
「将軍様のお遊びか」
ボソリと呟いて、創は手にしたレプリカを握りしめた。
すべてはそこから始まった。
無邪気な遊び心が人々を狂わせ、嫉妬、物欲、怨恨といった感情に支配されて、ついには恐ろしい所業に走ってしまったのだ。
「人間とは、かくも罪深く、憐れな生き物なのよ」
総一朗は例によって分別臭いセリフを口にした。
「そのレプリカ、貰っていいって刑事さんたちに了解とってあるから」
「えっ、そうなの」
「今回の事件に直接関係がある証拠品じゃないからね。薫さんのためにも、アタシたちがしばらく保管してあげましょうよ」
本物のサファイアを供えるのは無理だとしても、せめてレプリカを、両親の形見を幸薄い人の元に置いてやりたい。
事件が一段落したら、折をみて薫の墓前か仏壇に供えたいと総一朗は言い、創にも異存はなかった。
「さーて、アタシたちもそろそろ行きましょうか」
◆ ◆ ◆
雲の隙間から射し込む光は次第に強さを増し、重い灰色のベールが少しずつ剥がれて、やがてそこから青空が顔を覗かせるようになった。
「いい天気になってきたみたい」
嵐と共に事件は去った。
激しい天気の移り変わりがこの別荘を襲った一連の出来事の推移と一致しているのが何やら象徴的だった。
「これなら運転も大丈夫だね、道中気をつけてね」
黒い車に乗った圭介たち三人を見送ったあと「やれやれ、帰ってからが大変だ」と登志夫が溜め息混じりにぼやいた。
「今から事件がマスコミに発表されると思うと、ゾッとしますよ」
「事務所とか何とか、そっち方面にはとっくに連絡が行ってるでしょうし、大混乱の中へ戻るのね。質問責めが待っているわよ、ご愁傷さま」
そんなぁ、と恨めしげな顔をする登志夫を見て、総一朗はニヤニヤと笑った。
「これでセレブ探偵の映画化はポシャッてしまいましたし、わざわざ伊豆まで出向いたのに、この私にしてみれば踏んだり蹴ったりですよ」
「そうね、どう考えても映画は無理よね」
映画の中のお話よりも、作者や出演候補者たちが起こした事件の方がセンセーショナルだなんて、しかも主演女優が殺されてしまったなんて、ケチがついたどころではない。もう二度と、セレブ探偵が映画やドラマになることはないだろうと創は思った。
すると「そこでですね」と登志夫が身を乗り出してきた。
「私なりに考えたのですが、こうなったら、次はオカマ探偵でいきましょう」
「えっ?」
さっき二人で冗談混じりにそんな話をしたばかりである。唖然とする総一朗と創にはおかまいなく、登志夫はすっかり乗り気だった。
「セレブの代わりにオカマはどうかと、制作会社の方へ持ちかけてみようかと思っているんですよ。いえ、総一朗さんに出演をお願いしているわけではなくて、今回の活躍を参考に、主役のモデルになるのを承知していただこうかと……もちろん、実際に主演してくださってもかまいませんがね」
登志夫は楽しげに自分のプランを語り続けた。
「総一朗さんほどの美男子なら、俳優としても充分通用しますし、助手役の創くんにも登場してもらいましょう。もちろん、私がメガホンをとらせていただきますから」
俳優として探偵を演じる。やってみたいと思う気持ちはあるのかもしれないが、
「そんな映画作ったら、世間からブーイングの嵐よ。監督生命に関わるし、やめておいた方がいいわ」
総一朗はそう言って辞退した。
「そうかなぁ。美形の師弟コンビが探偵と助手として大活躍、絶対に当たると思いますけどねぇ」
「ま、気が向いたら考えておくわね」
「よろしくお願いしますよ」
再会を約束した二人と一人は握手を交わすと、それぞれの車に乗り込んだ。
……❿に続く