MY MEMORANDUM

オリジナル小説を公開するブログです

サファイアの憂鬱 ❽

    Ⅶ

 あれほど激しかった風は止み、打ちつける雨音も途絶えて、つかの間の平穏がこの地を支配している。

 辺りは不気味なまでの静寂に包まれ、庭の木々や草花を伝う滴が落ちる音まで聞こえるのではと思えるほどだった。

 空に垂れ込める灰色の雲がこの別荘の屋根にまで重く圧し掛かっているようで、圧迫された息苦しさを感じる。このまま窒息してしまいそうだ。

 事件は大詰めを迎えていた。

 菊川彩音を青酸カリで毒殺し、金谷礼司をロープで扼殺した真犯人は誰なのか。

 足が知らず知らずのうちに震えているのがわかる。

 真実を知りたい、だが、知ってしまうのは怖いような気がして……

 既にその真実を導き出しているらしい総一朗は自分の一挙一動に皆が注目していると承知して姿勢を正すと、顔つきや声色までが変わった。

「警察の関係者でもないのに、首を突っ込んでかき回した挙げ句、したり顔で事件を推理し、そのあらましを語っているという行為に対して、不快に思う方もおられるでしょう。僕自身、調子に乗って自分がここまでやってきたことがそのじつ、余計な手出しだったのではないのか、という感は歪めません」

 そう語る総一朗の面にチラリと苦悩の色が見えた。

 たまたま訪れた別荘にて、関わりを持ったミステリ作家と、パーティーに招待された華やかな客人たち。

 そこで一夜のうちに発生した、二つの不可解な殺人事件。

 それは本格マニアが作中に出てくる名探偵を気取りたくなるような、魅惑的なシチュエーションだった。

 抜群の洞察力と推理力を誇る総一朗が謎解きに乗り出したとして、それを咎めることはできないし、真実を突き止めるためにも、むしろ支持したいと大半の人が思ったであろう。現職刑事の相良までもがこの素人探偵を大歓迎しているほどだ。

 しかし、真実に突き当たった結果、できれば真犯人の名前を明かしたくはない、その罪を暴き立てたくはないという思いが総一朗の心を支配した。表情に浮かんだ苦悩はその表れではないだろうか。そんな辛さが伝わってきて、見守る創もなぜだか胸の痛みをおぼえた。

「……しかし、このまま黙って見逃すわけにはいかない。どんな理由があるにせよ、殺人は罪ですし、犯した者は罪を償わなくてはならない。また、真実を捻じ曲げたために、不当な扱いを受ける人を作り出してはいけない。誰であっても、個人の名誉は守られるべきだと思います」

 我々には真実を知る権利がある。

 そんな言葉をどこかで聞いた。自分たちもまた、事件に関わった以上は真実を知るべきではないのか。

 誰も反論しなければ擁護もしない。

 先を続けろという意味だと受け止めたのか、総一朗は再び語り始めた。

「この事件を複雑にしていたのは菊川彩音という女性の殺害を目論んでいた人物が二人、いえ、正確には三人いたという事実です。金谷礼司さんと松崎歌純さん、そして真犯人。それぞれの殺害計画は極めて杜撰なものでした。ところが、三人が期せずして共犯、事後共犯の形になってしまったために、奇妙な様相を呈し、それは我々を深い混迷に陥れたのです」

 いつもの総一朗ではない、慎重に言葉を選び、発言する様は厳しくも気高く、迫力に圧倒された人々と創はただただ、その姿を呆然と見つめるだけだった。

 総一朗は重々しい口調で告げた。

「彩音さんを毒物で殺害し、さらに礼司さんをロープで殺害した犯人はあなたですね、大東薫さん」

──もしもこの建物の地下に地雷が仕掛けてあって、それが爆発したとしても、創はここまで驚かなかっただろう。いや、地雷が爆発すれば驚くどころの騒ぎでは済まないが、それほどまでのショックだったという例えだ。

 地雷の爆発に驚いたのはもちろん、創だけではない。あまりの衝撃に人々は仰け反り、登志夫などはソファから転げ落ちる有様だった。

 真犯人だと指摘された薫はうつむき、唇を噛んだまま黙っている。

 それ以上に顔色を青くした宣昭は「まさか」と呟いたあと、激しい口調で総一朗に食ってかかった。

「総一朗先生、こんな重大な場面で冗談を言っちゃ困りますよ! どうして薫くんが二人を殺さなきゃならないんだ、返答次第によってはあなたを訴えますよ!」

 しかし、総一朗は冷静に答えた。

「僕は悪ふざけや冗談で、誰かを殺人犯などと言ったりはしませんが、訴えたければどうぞご自由に。ただし、今回の事件を招いたのは三島先生、あなた自身だと自覚していますか?」

「なっ、なんで私が……」

 原因はおまえにあると指摘されて、宣昭はおろおろとうろたえた。

「長い間、三島宣昭という人物に尽くし、仕えてきた薫さんに対して、あなたが与えた仕打ちはとても残酷なものだった。この事件はセレブ探偵を映画化しようという話から始まっていたんですよ」

 

『あの、松崎歌純という女優、なかなかいいね。私の好みにぴったりだよ』

 

『今度の映画で、あの人をエリナの役に、という話があったんだ。それで、歌純さんを誕生日パーティーに招待しようと思うんだが、どうかな。いやいや、今年のパーティーは楽しくなりそうだ』

 

「あなたはこんなふうに、薫さんの前で歌純さんの話をしたのではありませんか? 十年来の忠実な秘書であり、また愛人でもある人に向かって平然と放った言葉がどんなにか当人を傷つけたのか、あなたのように無邪気な将軍様にはわからないでしょうね」

 二人は愛人関係にある──

 当に見抜いていた総一朗によって、それを歌純の前で看破された屈辱──

 宣昭は苦虫を噛み潰したような顔をして黙りこくってしまった。

(将軍様、か)

「苦しゅうない、って言い出すかも」と悪口を言い合っていたのを思い出した創はそうだそうだ、そのとおり、と頷いたが、登志夫たちは唖然としたまま、名指しされた二人を見比べている。

(そうか、みんなは愛人関係に気がついていなかったからな、無理もないや)

「さて、こうしてバースディパーティーへの招待計画は進められ、昨日がその当日だったわけですが……」

 招待客が続々と集まる中、薫は一昨日からずっとコマネズミのように働き続けていたが、その働きに対する宣昭の労いの言葉は何ひとつなかった。

 パーティーが始まり、問題の人物の歌純も登場したが、事件のきっかけはここからだった。

 

『……アタシ、立候補しちゃってもいいですかぁ?』

 

 バツイチで現在は独身の宣昭に対して、彩音と歌純がそれぞれ花嫁候補を名乗り出たのである。

 もちろん、それらの発言は場を盛り上げるためのジョークに過ぎなかったのかもしれないが、宣昭はデレデレと鼻の下を伸ばしているし、その様子を見た薫の心中が穏やかでなくなったとしても、不思議ではない。

 さらにそのあと、女二人は宣昭とサファイアを巡って火花を散らし、暗号のヒントを得ようと、取っ組み合いの喧嘩を始めた。

「ライバル同士の彩音さんと歌純さんは二人同時に、薫さんのライバルにもなってしまったのです。怒った歌純さんは先に部屋へ行きましたが、彩音さんはリビングに入った」

 問題は次の場面である、と総一朗は語気を強めた。

「最初に吉田警部から尋問されたときに、薫さんは彩音さんがリビングに入ってきたのには気がつかなかったと発言しましたが、あれは嘘ですね、薫さん」

 口を開こうとはしない薫から言葉を引き出すつもりもないらしく、総一朗は「あのときは歌純さん以外の全員が廊下に出ていて、彩音さんが引き戸を乱暴に扱う音にびっくりさせられましたけど、刑事さんたち、何なら実験してくださいますか」と提案した。

「テレビも消えて他に誰もいない、静かなリビングの引き戸を思い切り開閉する。もう一人はそこの間の戸を閉めて、キッチンで皿洗いをしてください。いくら水を出していたとしても引き戸の音は聞こえると思いますけど、いかがでしょうか」

 吉田と相良は言われたとおりに実験を行い、キッチン側にいた吉田が「たしかに聞こえた」と証言した。

「これでリビングに誰かが入ってきたことはわかるはずです。ではなぜ、薫さんは嘘の発言をしたのか。そこで彩音さんと会話したことを知られたくなかったからです」

 リビングを突っ切り、キッチンに顔を出した彩音は薫に向かって、あることを持ちかけたのだ、と総一朗は言った。

「薫さん自身が語られるつもりはなさそうなので、僕の想像で恐縮ですが、そのときのセリフを再現してみます」

 

『ねえ、薫さん。あとでアタシの部屋に来てちょうだいって、三島先生に伝えて欲しいの。いいでしょ?』

 

「……何だって?」

 血走った目で息巻く圭介を登志夫と良太が両脇から押さえ込む。嫉妬に狂った男が総一朗の語りを邪魔しないようにという、二人の配慮だった。

「彩音さんは歌純さんを出し抜こうとして、三島先生に夜のお誘いをかけた。廊下にはまだみんながいましたから、直接先生に話しかけるわけにはいきませんし、愛人とは知らずに、薫さんに伝言役を頼んだのです」

「何でそんなことがわかる? 彩音がその男を誘惑しようとしていたなんて、どうしてそんなことが……」

 身体を押さえ込まれても、口は動いてしまうのだが、圭介の妨害発言に対して、総一朗は涼しい顔で切り返した。

「彩音さんが亡くなっていたときの格好を思い出してください。黒地に花柄のネグリジェを着ていましたが、化粧は落としていませんでしたね」

 そこで総一朗は同じ女性である唯に向かって話を振った。

「唯さん、あなたならどうしますか? 化粧をしたままで寝巻きに着替えますか」

「いいえ、お風呂に入るか、シャワーを浴びてから着替えます。汚れがつくと困るので、少なくともメイクを落として、顔を洗ってから着替えると思います」

「常識的に考えればそうですね。彩音さんも寝る準備をしていたのなら、化粧を落としたでしょうが、そうではなかった」

 これから三島センセイがここを訪れるのだ。メイクを落として、素顔を見せてしまうなんてとんでもない。

ばっちり塗り直して、誘惑のための舞台衣裳をセクシーなものに整えた彩音は暇つぶしにコミックを読みながら、宣昭の訪問を待ちわびていたのである。

「彩音さんの頼みを薫さんはどう感じたでしょうか。来客からの伝言を握りつぶすのは秘書の務めに反していますが、正直にそれを伝えた結果、三島先生が喜んで誘いに応じ、二人がベッドを共にするのは堪えられないと思うのが当然です」

 ここでいつもの総一朗なら「男って生き物はこれだから」の決めゼリフが出るところだが、今は名探偵バージョン、さすがにそういう言葉は出てこない。

「それならば、先生は夜更かしできないからとでも言って、お誘いを上手く断ればよかったのにとも思いますが、それで彩音さんが納得しなかったら、事態はどうなってしまうのか。とりあえず伝えることを承諾して、彩音さんが立ち去ったあと、薫さんの中で怒りの感情が増幅していった」

 これだけ尽くしている自分を差し置いて、あとから登場した二人の美女に心を動かされる宣昭が憎らしい。

 宣昭の歓心を得た歌純、この女さえ自分たちの前に現われなければ、こんなに辛い思いをしなくても済んだはずだ。

 歌純への対抗意識から、宣昭を寝取ろうと謀る彩音、同じ建物に圭介という恋人も泊まっているのに、破廉恥で恥知らず、軽薄な行動には虫唾が走る。

「あなたは考えた。彩音さんを殺して、歌純さんを犯人に仕立てよう。二人はさっきもいがみ合っていたぐらいだから、歌純さんが憎い彩音さんを殺してしまう展開は充分に有り得る。一方は死亡、もう一方は犯罪者。二人同時に破滅させる方法ですね」

 なるほど、一挙両得な手段だ。

「台所の後始末を終えたあと、何時頃に行くとか何とか、三島先生からの返事を伝えるために、彩音さんの部屋へ入り込んだあなたは頭痛薬、もしくは元気の出る薬を預かってきたからと言って、彩音さんにそれを飲むよう勧めた」

「いい加減にしてくれ!」

 まったく反論しようとしない薫に苛立ってか、代わりに宣昭が声を荒げた。

「彩音さんから誘いがあったなんて、私は聞いていない」

「当たり前でしょう。返事というのは嘘に決まっている、そのことは承知の上で聞いておられると思っていましたが」

「そもそもだ、私を誘惑しようとしたというだけで、誘った相手に対してそう簡単に殺意が芽生えるものかね?」

「その点はいずれ、薫さんの口から聞けることになるでしょう」

 総一朗は思わせぶりに言い、再び薫の方を向いた。

「用心深く、慎重なあなたは彩音さんの部屋へ入ったときにこっそり鍵をかけた。それがそのあとの密室疑惑につながるわけですね。当の彩音さんはあなたが自分に殺意を抱いているなんて知る由もない。まんまと毒物を飲ませるのに成功し、彩音さんの死を見届けると、遺体の指をペン代わりにして『カスミ』のダイイング・メッセージを書いた」

 死の間際に、被害者があれこれと複雑な伝言を考えるのは不自然だ。

 パーティーの最中に宣昭が語った、ダイイング・メッセージに関するうんちくが頭にあった薫はもっともシンプルな三文字を選んだのだ。

「ところが、ここで思いもよらぬ事態が発生した。そう、圭介さんが彩音さんを訪ねてきたのです」

 ドアをノックする音に驚いた薫は鍵がかかっているとわかっていてもつい、隠れてしまった。隠れた場所はユニットバスの扉の蔭が適当だろうと総一朗は述べた。

 やがて圭介はあきらめて戻って行ったが、その直後に招かざる客がやって来たのである。室内に真犯人を残したままのところに、その人物が入ってきたために謎が生まれた。彩音が密室で殺されていたように見えたのも、死者が鍵をかけたように思えたのも、謎の真相は他愛のないことだった。

「もちろんおわかりのように礼司さんです。圭介さんと違い、鍵を開ける技術を持つ礼司さんが侵入してきた、それを見た薫さんがどんなに驚いたか、想像に難くありません」

 入ってきたのは身体の大きな若い男、とくれば、パーティーで圭介が揶揄していたデカブツのナイトだと察しがつく。

 礼司は真犯人がユニットバスに潜んでいるとは知らず、彩音に近づいてロープを……という、以降の展開は先に語られたとおりである。

「一連の礼司さんの行動を見守っていた薫さんはその目的を把握した。礼司さんは歌純さんのために彩音さんを殺そうとしていたのだから、何が何でも歌純さんを守ろうとするだろうし、その立場が不利になれば自首して、侵入した時点の現場の状況や、自分たちの計画など、洗いざらい警察に話すはずだ。それは薫さんにとって非常にまずい」

 歌純と礼司が共犯関係にあったことや、部屋には入れなかったと圭介が証言するなど、あらゆる要素が真犯人を絞り込み、我が身へ迫ってくる結果になる。

 礼司の口を塞がなければならない。侵入者のあとを密かにつけた薫は物置に入った男を背後からロープで殺害した。

 礼司が置いた遺書をそのままにしておいたのは、そんな小細工で自殺と判断されるとは思えないし、隠したり捨てたりするリスクを考えると、放置した方がマシだと判断したからだ。

「……以上が二つの事件の顛末です。先にお話ししたように、それぞれの行動はとても杜撰なのですが、一人の女性を二人が狙う、一人は自殺として、もう一人は他殺として。それが事件を複雑なものにしてしまった」

 そこまで話すと、総一朗は息をつき、肩を大きく揺すった。

「ただし、今までの説明はあくまでも状況証拠を元にして僕が組み立てたものであり、物的な証拠はありません。彩音さんの部屋に残る指紋も、掃除などで出入りしているあなたの場合、決定打にはならない。認めないと言われればどうなるのか……」

 チラリと薫を見たあと、総一朗は「あと一点、付け足すとすれば」と続けた。

「吉田警部から二度目の尋問を受けたとき、階段と二階の廊下の消灯に関して、あなたは『スイッチは一階の階段上り口にあるから、二階には上がっていない』と殊更に強調したことですね。職務に忠実なあなたが二階に上がらないのはおかしい。なぜなら、二階にはベランダに出るための出入り口があるのだから、そこの施錠を確認しないはずはない。現に、一度目の尋問のときは建物中の戸締りを確認したと話していました」

「そう言われればそうでした」

 吉田が思い出しながら頷く。

「あなたは彩音さんの部屋を訪れた事実を隠したい一心でつい、そんなふうに言ってしまったのではないですか?」

 総一朗の言葉が終わると、薫は深い溜め息をついた。

「……総一朗先生がここへいらしたのは偶然だとは思えません。これは神が私に下した天罰なのでしょう」

 そして薫は「彩音さんと礼司さんを殺したのはおっしゃるとおり、この私です」と己の罪を認めたのであった。

    ◆    ◆    ◆

 長い睫毛を伏せ、薫はしばらくの間無言だった。悟りを開いたかのような、思慮に満ちた表情をしている。

 霧に包まれたような深い沈黙が漂い、やるせない思いに囚われた人々は身動きひとつせず、ひたすらに成り行きを見守っていた。

「どうして……そんな……」

 枯れた声を喉の奥から搾り出して、宣昭は喘ぐように呟いた。

「では、認めるのですね」

 確かめるように問いかける総一朗に「はい」と頷くと、薫はゆっくりと口を開いた。

「すべては総一朗先生のお話にあったとおりです。私は彩音さんに毒物を元気になる薬だからと勧めて、服用させました。毒を手に入れたのは三島先生のお供で海外に出かけたときです」

「三島先生に近づく彩音さんと歌純さんに嫉妬心を抱いた……それが動機だ、と説明しましたが、それ以上に、あなたを突き動かしたお母様に関する事実について、どうか聞かせてください」

「あの会話だけでおわかりになったのですか、さすがですね」

 柔らかく微笑む薫に、総一朗はすべてを把握したわけではないと言った。

「だからこそ知りたいのです」

「わかりました」

 こちらを見つめる人々に向かって「昨日、総一朗先生と創さんにお話ししたのは、三島先生のお父様が社長をされている貿易会社で、私の母が事務の仕事に就いていたという内容です」と説明したあと、薫は亡き母を偲んでか、遠い目をした。

「私の父は小学生のときに事故で亡くなりました。その後、母は事務の仕事に就き、社長には随分とお世話になりました」

 まさか、と創はある想像をした自分を自分で戒めた。

 宣昭の愛人である薫、その母もまた、宣昭の父の愛人ではなかったのか──

 薫とよく似た、美しい面差しの女性が愛人だったという可能性は否定できないが、その辺りには触れずに、薫は言葉を続けた。

「調理師の専門学校に通っていた私は社長の援助を受けて、秘書の資格も取りました。秘書として、作家デビューした息子をサポートして欲しい、というのが社長からの依頼でした。今から十年ほど前の話です」

 大学を卒業しても、まともに定職に就かずブラブラしていた宣昭がようやく作家としての一歩を踏み出した頃である。

 離婚後の独り者にとっては秘書というよりその身の回りのお世話係だが、恩人の願いどおり、薫は宣昭の秘書として、常に行動を共にすることになった。

 二人が愛人関係に陥ったのは一緒にいるようになってから、かなり早い時期だったらしい。それは今日までずるずると続いた。

「母は七年前に病気でこの世を去りましたが、そのときに手渡された形見の品こそ、あのサファイア、『蒼い堕天使』だったのです」

 蒼い堕天使が──

 その場に強い衝撃が走った。

「あの石は大東の家に伝わるものでした。何でも昔、祖父がインドに渡ったことがあったとかで、それが父の手に……母の形見は父の形見でもあったのです」

「ご両親の形見であると同時に、先祖伝来のお宝だったわけですね」

「ええ。そうなんですが、なぜ『蒼い堕天使』という名前がついているのか、その由来は詳しく聞いていません。それに、青というよりは黒っぽい、原石の状態だったので、どれほど値打ちのあるものなのか、心得のない私にはわかりませんでした」

 宝石マニアの宣昭がこれを見逃すはずはなかった。

 カットして磨けば、宝石としての値打ちが出てくる。金庫に入れて厳重に管理するから、どうか譲って欲しいと言い出した。

 宣昭に譲ることにためらいはなかった。それが愛情の証だと思っていたし、宣昭の手元にあるのは自分の手元にあるのと同じだから、亡き父母を偲ぶために、いつでも眺めることができる。薫はそう考えていた。

 ところが──

 宣昭は『蒼い堕天使』という名前を作品のタイトルに流用した。それだけならいいが、大切な両親の形見の宝石をこともあろうに、暗号解読の賞品にした。無邪気な将軍様ならではの発想であった。

 もちろん、賞品はレプリカと現金であり、実物を譲るわけではないが、形見の品がそんなふうに扱われることに反発をおぼえるのは人として当たり前の感情である。

 あの時、薫が見せた宣昭に対するささやかな抵抗の本当の理由はそこにあった。

 その上、愛する人たちの思い出の品を前にして軽薄な女が口にした、思いもよらない言葉は……

 

『アタシ、その青い石がすっごく気に入っちゃったの。ねえ、センセイ、いいでしょ?』

 

「……彩音さんがあんなことを言い出さなければ、たとえ先生を誘惑したとしても、私はあの人を殺そうとまでは思わなかったでしょう。相手は形見だとは知らない、それは承知していますが、どうしても許せなかった。すべての物事に対して、自分の意思や希望を強引に通してしまう性格に対する妬みもあったと思います」

 しかも、彩音の発言に触発されて、歌純までもがサファイアを狙い始めた。

 彩音に譲る気はなくとも、お気に入りの歌純の頼みとあれば、宣昭はサファイアを渡してしまうかもしれない。

 だが、おまえは黙って従えと言われた以上、形見云々の説明をするわけにもいかない。そうと知ったら、余計な口出しをしたと、宣昭が激高するのはわかりきっている。

 両親の形見を、愛する人を、自分に残されたもの、そのすべてを奪っていこうとする女たち。

 黒い炎となって燃え上がった薫の憎悪は二人に向けられた──

「毒物は自分の進退を決めるときのために使うつもりで用意していたのですが、こんな形で使う羽目になるとは思ってもみませんでした。それに、我が身可愛さに礼司さんまで手をかけてしまった……随分と身勝手な考えだと、不愉快に思われたでしょうね」

 そう訊かれて、総一朗は静かにかぶりを振った。

「心情をお察しします」

「ありがとうございます」

 薫は深々と頭を下げた。

 登志夫が、良太が、唯が、それぞれ悲しげな目をして、そんな薫を見つめている。

 恋人を殺した犯人を憎むでもなく、圭介もまた、憂いの眼差しを向けた。一連の事件で女の醜い欲望が露わになった、それを見せつけられて目が覚めたのだろうか。

「皆様にはご心痛を与え、大変なご迷惑をかけてしまいました。お詫びをして許されることではありませんが、どうか、この身に免じてお許しくださいませ」

 それから薫は放心状態になっている宣昭に向かって「先生、この愚か者をお許しください。あなたにお仕えできて、本当に幸せでした」と告げた。

「どうかお許しください……どうか……」

 次第に消えゆく声、人々が気づいた時には既に薫の息はなかった。

「しまった!」

 慌てて駆け寄った吉田と相良の顔に悔しさが滲む。

 呆然と見守る登志夫たち、憎いライバルを抹殺するつもりが、大切な仲間を失った。そればかりか一人の人間の生き方までも狂わせた、己の罪の深さに歌純は号泣した。

 宣昭は悲痛な叫びを上げながら、崩れ落ちた身体を抱きしめ、総一朗はそんな二人を静かに見下ろし、黙祷を捧げていた。

 頭を下げた時に、隠し持っていたカプセルを素早く飲み込んだのだろう。美しき秘書は彩音の命を奪ったのと同じ毒物を使って、その短くも儚い人生に自らの手で幕を降ろしたのである。

 それは同時に、登場人物と演出家を失ったミステリ劇場の幕切れでもあった。

                                ……❾に続く