MY MEMORANDUM

オリジナル小説を公開するブログです

サファイアの憂鬱 ❼

    Ⅵ

 リビングでは昼食の準備が始まっていた。

 こんな時に食事が喉を通るとも思えないが、腹が減っては戦ができぬ云々と、都合のいい諺を持ち出す輩がいるから、気を利かせたのだろう。

「昨日のお昼と同じメニューになって申し訳ありません。パスタも作ったので、そちらもどうぞ」

 そう恐縮しながら、薫がサンドイッチの乗った大皿を運び、手伝いを買って出た唯がコーヒーのカップを並べている。

「刑事さんたちもよろしかったら、御一緒にいかがですか」

 宣昭の勧めに、いえ、我々は、といったんは遠慮したものの、結局お相伴に与った吉田と相良、殺人事件という激しい嵐に見舞われた別荘に、しばしの休息が訪れた。

 とはいえ、今までどおりの食欲があるはずもなく、男性たちもサンドイッチを二、三ピースつまんで手を止め、気を取り戻した歌純は何もいらないと首を振り、コーヒーだけを飲んだ。

 大皿が下げられ、飲み残しのカップが並ぶ食卓はそのままに、吉田警部による謎解きが開始される運びになった。とりあえずはお任せとばかりに、総一朗は腕を組んで見守っている。

「お疲れのところを恐縮ですが、これまで発見された証拠や証言を元に、私が事件の解説を始めますので、皆さんからも再度お話を伺いたいと思います。よろしいですね」

 もうイヤだ、うんざりする、勘弁して欲しい。あらゆる不満を胸に押しとどめて、居並ぶ人々は一様に頷いた。

「まず、菊川さんの事件からです。十時に二階の部屋へ入った菊川さんは鍵を閉め、そこで入浴したか、眠ってしまったかはわかりませんが、一時過ぎに清水さんが訪れたときにはドアを開けなかった。もちろん、これは清水さんの証言を信用した上での見解で、証拠はありませんが」

 吉田をギロリと睨んだ圭介は「御託はいい。彩音を殺したのが誰なのか、早く教えろ」と凄んでみせた。

「まあ、そう急かさないでください。菊川さんと会うのをあきらめた清水さんが部屋へ戻ったあと、別の訪問者が現われた。その訪問者は菊川さんのお見舞いに来たのではありません、殺意を抱いて現われたのです」

 ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえてくる。いよいよ犯人の名前が明らかになるのだと意気込む人々に「それは金谷礼司だ」と先回りして言いたいのを堪えて、創は吉田の決めゼリフを待った。

「その人物はピッキングの名人で、鍵のかかったドアを開けることができますから、別荘へも、菊川さんの部屋へ侵入するのも、お手のものです。中に入り、ナイフか何かで菊川さんを脅して毒物を飲ませ、絶命したのを見ると、用意していた偽の遺書を机の上に置いて逃走し……」

「嘘よ、嘘!」

 甲高い叫び声と共に、ソファから立ち上がったのは歌純だった。

「あなたが疑っているのは私のマネージャーの礼司でしょう? あの人がこっそり忍び込んで、彩音さんを自殺に見せかける細工をして殺した、そう言いたいのね」

「答えを言われてしまいました。そのとおりです」

 彩音殺しの犯人は金谷礼司であると断言されて、登志夫や良太たちは顔を見合わせ、動揺する中にも、どこか安心した様子で口々に語り始めた。

「そうか、彩音ちゃんはあいつにとっても目障りな存在だったから……」

「いなくなれば歌純さんに仕事がまわってくると思ったんでしょうか」

 みんなの反応を見回していた歌純は「違う、違うわ、犯人じゃない」と否定し続けた。

「だったら、いったい誰が礼司を殺したのよ? 物置で死んでたんでしょう、同じ犯人の仕業じゃないの?」

「その件はもっとあとで、と思っていたんですが」

 歌純の反論にも、吉田は冷静な態度で対応した。

「犯人が菊川さんの部屋から出てくるのを見た方がこっそりとあとをつけて、仇討ちとばかりに物置で首を絞めた。それから絶命を確認し、裏口の鍵をかけ直して何事もなかったかのように部屋へ戻った。あんな大男を絞殺できるのは男性だけですから、清水さん、金谷を殺したのはあなたじゃないですか?」

「なっ、なんだと?」

 いきなりの礼司殺しの犯人呼ばわりに、圭介は憤慨して叫んだ。

「どうして俺があいつを殺さなきゃならないんだ! 彩音を殺した犯人は憎い、だが、俺は金谷がこの別荘に来ていたなんて、ヤツがここの物置で死んでいたと聞かされるまで、まったく知らなかったんだぞ!」

 同じ理屈は登志夫や良太にも当てはまるが、二人が我が身の将来を犠牲にしてまで──殺人者の汚名を着てまで──彩音の仇討ちをするとは考えにくい。

 礼司殺しはやはり圭介なのかと、創は血走った目の、狂人と化してきた男を見つめた。

(なんかヤバそうな顔になってるし、有り得なくはないよな)

「それにさっき、あんたは男の腕力でなきゃ金谷を絞め殺すなんてできない、なんて言ったけど、そこの女は」

 圭介は歌純を指して吠えた。

「あのどでかいバイクを乗り回しているんだぜ。女の細腕なんて侮っちゃいけない、他の女には無理でも、こいつなら自分の下僕の首を絞めることぐらい、造作もない。殺人の罪をマネージャーに全部おっ被せたんだ」

「何ですって? 私が礼司を殺したって言いたいの? ふざけるのも大概にしてよ!」

 歌純は興奮してヒステリックに叫び、喚き散らした。

 その場が紛糾してきたと見てとると、総一朗は「まあまあ、皆さん落ち着いて」となだめた。

「話が先走り過ぎよ、警部さん。もっと納得がいくように説明しないと、事件解決にはならないわ」

 不服そうにこちらを見る吉田には構わず、教授はちゃっかりとイニシアティブを取り始めた。

「まず、はっきりさせておきましょうか。金谷礼司が菊川彩音殺害を目論んで、ここまでやって来たのは明白ね」

 なんですって、と息巻く歌純に思わぬ牽制球が投げつけられた。

「そして、その共犯者はあなたよ、松崎歌純さん」

「じょっ、冗談じゃないわ!」

 髪を振り乱して、ますますヒステリックになる歌純の姿に、みんなの疑惑の視線が向けられた。反応の仕方があまりにも狂気じみていたからである。

「私は礼司と一緒に来たわけじゃない、バイクに乗って、一人で来たのよ。目撃者ならいくらでもいるわ、疑うなら調べてみてよ」

 仕事場を出発した時、高速道路の料金所、歌純はずっと単独で移動していたことを強調した。

「だから、礼司が来ていたなんて知ってるはずないでしょう? それなのに、どうして共犯者呼ばわりされなきゃならないの!」

「たしかにそうね。あなたはずっと一人だった、それを周囲に印象づけるために、わざわざバイクでの移動を選んだんだわ」

 自信あふれる総一朗の態度に、歌純は一瞬怯んだかに見えた。

「監督が話してたわ、あのマネージャーがバイクで行くことをよく許したな、って。それが作戦の内だったからよ」

「作戦ですって?」

「あなたと金谷マネージャーが計画した『菊川彩音自殺大作戦』とでも呼びましょうか。何だか変なタイトルね、アタシのセンスが疑われちゃうわ」

「言わせておけば……」

 ギリギリと歯軋りをする歌純を見やると、総一朗は大作戦の内容を明かした。

「あなたと金谷さんにとって、彩音さんは目の上のタンコブ。それは皆さん周知のとおりよね。あのクソアマ、芸能界から葬ってやる、ぐらいに思ってたんじゃないの? あら、アタシとしたことがお下品な言葉ね、失礼」

 教授のペースに飲み込まれた人々は──ツワモノの吉田警部さえも──唖然として、天総一朗独演会の聴衆になっている。

 巧妙な犯罪を描くはずのセレブ探偵の原作者も、オカマ探偵の言葉に口出しできずに、ひたすら聞き手に徹底しているのは皮肉な感じがした。

「そこに持ち上がったのがセレブ探偵の映画化の話。三島先生自らの推薦で主役を射止めるはずだったのに、またしても彩音さんの存在が邪魔をした。しかもエリナ候補として、唯さんと合わせて三人が別荘への御招待を受けた」

 あんな女と一緒に、だと? 歌純は相当憤慨したに違いない。だが、そこで礼司との間に持ち上がったのが、宣昭の別荘招待を利用して、彩音を自殺に見せかけて殺す計画だったのだ。

 人目が少ない上に、常日頃の平和に慣れているせいか、防犯意識も低い地方の別荘地は都内のホテルやマンションのようなセキュリティを気にするでもなく、実行に移すには絶好の場所である。

 芸能界どころか、彩音をこの世から永遠に葬ることにしたわけで、歌純が礼司のような曲者を傍に置いていたのも、いずれ何らかの形で彩音の追い落としを謀るのに、都合がいいと考えていたからだろう。

 どちらが言い出したのかはわからないが、二人の彩音殺しのシナリオは着々と書き上げられていった。

 まず、世間に顔を知られていない礼司が一人で別荘の下見をして──この場合、有名人の歌純を伴うのは避けるのが賢明である──林に放置された多くの車の存在を知り、また、鍵のかかっていない物置があることを確認したと、総一朗は先程創たちに語った内容を繰り返した。

「相良さん、盗難車の件、確認取れましたか?」

 総一朗の問いかけに、相良が自信満々の表情で頷いた。

「はい、たしかにありました。一昨日の夜に都内で盗まれ、昨日盗難届けが出されていた車がキーをつけた状態で、林の中に放置されているのを確認しています。車内に指紋その他の、何らかの痕跡が残っていないか調査中ですが、金谷礼司が乗ってきたとみて、まず間違いないと思われます」

「ご苦労さま」

 相良をねぎらったあと、総一朗はさらに話を続けた。

「当日、つまり九月一日の夕方、歌純さんはバイクで出発した。あとから一人で行くと、わざわざ良太さんに電話までしてね」

 一方、礼司は盗んだ車に乗り、偽造した彩音の遺書を持って、歌純よりも先に伊豆へ向かった。

 自分の車ではなく盗難車を使ったのは金谷礼司という男がこの場所に来たことを知られないように、彩音殺しの犯人の存在を隠し通すための手段だった。車はあとでどこかへ乗り捨てて処分すれば足がつかなくて済む。

「招待を受けていたのはマネージャー抜きで六名。だから、彩音さんが自殺ではなく他殺だと判断されても、当日そこにいないはずの人が手を下したのだから、犯人がわかるわけはない。万が一この中の誰かが疑われても、少なくとも歌純さんには疑いがかかることのないようにと配慮もしたのね。杜撰な計画のわりにはけっこう細かいところまで気を遣っているな、って思ったわ」

「その配慮って、どういう意味?」

 思わず口を挟む創に「またあとで。それより空飛ぶ男の話よ」と嗜めると、総一朗は礼司の移動手段についての説明を始めた。

「礼司さんは林の中に車を停めて、歌純さんが到着するのを待った。まさか別荘の駐車場に停めるわけにはいきませんからね。放置車両の中に紛れ込んでいれば、いざというときにもバレにくいって考えたのよ」

 やがてやって来た歌純と落ち合い、レインコートを着るとバイクの後ろに乗って、つまりタンデムで別荘へ向かう。

 僻地の林道での目撃者の心配はまずない。ましてや夜となれば尚更だ。これで礼司は空を飛ばずして、東京から伊豆の別荘への移動を成し遂げたわけである。

到着後、歌純は玄関へ、礼司は闇に紛れて建物の北側をまわり、物置の中へと滑り込んだのだった。

「じゃあ、あのときボクたちが見たバイクのライト、後部席にはとんでもない人が乗っていたんですね」

 そう言って身震いする良太をもの凄い目で睨みつけた歌純はそこで、またしても反論を開始した。

「私はノンストップでここまで来たって言ったでしょ。礼司と待ち合わせしたっていう、その証拠はあるの?」

 すると総一朗は微笑みながら、みんなの顔を見回した。

「歌純さんが到着したときの様子をおぼえているかしら? 玄関先に荷物とヘルメットを置いて、薫さんが手渡したタオルを使いながら、この部屋へ現われた……」

 あの時の場面を思い出そうと、皆、頭をひねるものの、何がおかしいのかよくわからずに、驚きの解答を期待しつつ、揃って総一朗を見る。

「アタシもそのときは変だとは思わなかったのよ。だけど、二人の共謀説に考えが至って気づいたの」

 ヘルメットよ、と総一朗は強調した。

「駐車場から玄関に入るまではヘルメットを被ったままだったのは確かだし、ノンストップで走っていたのなら、途中で脱ぐこともないでしょ。いくら雨が強くたって、ヘルメットを被った頭のてっぺんが濡れるはずはない。けれど、歌純さんはてっぺんをタオルで拭いていたし、髪の毛はしっかり濡れていた。どこかでヘルメットを脱いだ証拠よ」

「バカバカしい」

 美人女優は総一朗の発言を一笑に付した。

「もしも礼司との待ち合わせで停まったとしても、そのあとも続けて走るのに、いちいちヘルメットを脱ぐ必要はないわ。どうしてそれが証拠になるの?」

 そこまで言い切ると、歌純は思い出したように付け加えた。

「ノンストップと言っても、サービスエリアでトイレぐらいは立ち寄ったわよ。たぶん、頭はそのときに濡れたんだわ」

 歌純の言い訳を鼻であしらうと、総一朗はお生憎さま、と言ってのけた。

「あの豪雨は伊豆地方の局地的なものだって天気予報で言ってたし、あなたが東京や神奈川の高速を通過したとき、雨はそんなに降っていなかったと思うけど。何なら気象庁に問い合わせてみましょうか」

「それは……」

「ヘルメットを被ったままでケータイはかけられない。かけるために脱いだ。それが本当の理由でしょう?」

 さすがの歌純も痛いところを突かれたようである。ただでさえ悪い顔色が真っ青になった。

「この辺りにはツーリングで来たから大丈夫だって、良太さんに話したそうね。もしもそれが事実だとして、本当に近くまで来た機会があったとしても、まさか観光地でも何でもない別荘地の中をツーリングするとは思えないわ。不案内な場所を一人で進むのは心細いから、下見経験者の礼司さんと待ち合わせることにしたのね」

 昼間でも迷う複雑な道路を夜、それも豪雨の中をぬって走るなんて。

 おまけに目的の三島家の別荘を探しながら、なんて。

絶対にやりたくない一人旅である。

「それに、向こうの林からここまで徒歩はちょっと距離がある。雨はひどくなったし、礼司さんを歩かせるのは気の毒だとも思ったんでしょうね。お優しいこと」

 そこまで一気にしゃべると、総一朗は大きく息をついだ。

「ところが、あなたは礼司さんがどんな車に乗ってきたのかは知らない。何しろ盗難車ですからね。まあ、あらかじめ車種ぐらいは聞いていたかもしれないけど、林の中には車がたくさんあるから見当がつかない」

 さらに、

「六時過ぎともなれば日が暮れて、夕暮れ時どころか、嵐になって真っ暗。ナンバープレートも見えやしないわ。だから、相手がどの辺りにいるのか、ケータイで連絡を取り合いながら進もうとした。土砂降りの中でヘルメットを脱いだから、さあ大変。髪の毛はびっしょり、という具合よ。どう、アタシの推理はいかが?」

(すげぇ。そんなこと、まったく考えつかなかった)

 単なる出しゃばりオカマではない、我らが教授に、こんな探偵の才能があるとは思わなかった。総一朗へ向ける眼差しが驚きと尊敬で満ち溢れる。

 今度ばかりは反論できず、黙ってしまった歌純を尻目に、総一朗は大作戦の続きを語った。

「礼司さんと最終的な打ち合わせも済み、無事パーティーに参加した歌純さんに大変な事態が待ち受けていた。それは三島先生が提案した宝探しよ。お蔭でケータイを取り上げられて、物置に隠れている礼司さんとは連絡が取れなくなってしまった」

 歌純が携帯電話を金庫へ格納することに強く反対していたのはそのせいだった。

 もっとも、何かの理由で連絡できない状態に陥る場合は多々あるが、みんなの隙を見計らって物置まで出向く、などといった方法はまずい。現場に於いて、いないはずの人物に接触するのは極力避けた方がいい、いや、避けなければならないのだ。

 あらゆる場面を想定して、共犯者二人はそれぞれに対応する手段を考えていたが、この場合は『歌純からの連絡がなくても、みんなの様子次第で侵入が可能ならば、礼司が単独で決行する』という取り決めだった。

「約束どおり、礼司さんは別荘に侵入した。こんなチャンスは二度とないから、たとえ歌純さんと連絡が取れなくなったとしても、作戦を延期するわけにはいかなかったのよ。幸い、みんな寝ちゃったみたいだし、鍵も簡単に開いたし、これならイケるぜ、レッツゴーッ! ってわけね」

 得意気な総一朗のセリフを耳にすると、何じゃそりゃ、と創は目をむいた。

(レッツゴー、ってマジかよ。そんなダサいセリフ、恥ずかしくて言えないって。所詮、オヤジだよな)

 さっきまでの見事な解説に感心していたのに、レッツゴーのお蔭で、せっかくの名探偵ぶりが台無しである。

 助手の落胆にはおかまいなく、

「監督が雨戸の音だと勘違いしたのは礼司さんが物置の扉を開け閉めした音だと思うわ。あのテの扉って、そっと開けたつもりでも音がするし。東側の窓を通して、響いてきたんでしょうね」

 そう解説を続けた総一朗は両手を広げた大袈裟な身振りで「ところが、歌純さんと連絡が取れないとなると、ひとつだけ問題があるのよ」と強調した。

 元々、殺害そのものは礼司一人で行なうつもりで、歌純は偵察役だが、その歌純と連絡がつかなくなった礼司にとっては、どこが彩音の──ターゲットの部屋なのか、それがわからないのだ。

 部屋割りは別荘に到着した時点で決められているし、歌純がその割り振りを知ったのは自分の部屋に案内された時である。礼司に彩音の部屋の位置を伝える機会など、あるはずもなかった。

「適当にあたりをつけて、違う人の部屋に入って見つかりでもしたら、作戦は大失敗どころか、歌純さんの方が芸能界から追放されちゃうから大変よ」

 でも大丈夫、と総一朗はOKサインを作ってみせた。

「こんなこともあろうかと、歌純さんはちゃーんと手を打っておいてくれたのよ。それも二人の間で、打ち合わせ済みだったんでしょうね」

 このまま総一朗の独断場にはさせまいと、吉田が慌てて口出しをした。

「菊川さんの部屋の扉の下方に、蛍光塗料が塗られた、小さな星型のシールが貼ってありましたが、これは子供のいたずらなどではなく、一昨日の時点までは貼られてなかったことが確認されています。また、他の皆さんの部屋の扉には何も貼られていません。これは松崎さん、あなたが貼ったものですね?」

 だんまりを決め込む歌純に、吉田は勝ち誇ったように言った。

「あなたの部屋の屑籠から、星型のシールを剥がしたあとの台紙が見つかっています。あなたは皆さんが寝静まったあと、犯人の侵入までに間に合うよう、こっそりと廊下に出てシールを貼った。昼間はわかりにくく、なかなか見つけられないものですが、暗がりではぼんやりと光る道標となり、犯人はやすやすと菊川さんの部屋にたどり着けた、というわけです」

「そういうこと。伊豆だけ嵐になってしまったお天気の悪さといい、シールの剥がし忘れといい、状況はあなたたちの味方になってはくれなかった。ご愁傷さま」

 総一朗は憐れむような目で歌純を見た。

「シールを残しておいたのは失敗よ、バレないうちに剥がしておけばよかったのにね。そのドアの奥で、彩音さんが死んでいると想像したら、怖くて剥がしに行けなかったのかしら? 図星?」

『星』のシールと図『星』をかけたらしいが、誰一人として反応しない。

(あーあ、せっかくのギャグがスベッちゃったよ。こんな場面でウケを狙うのが間違ってるけど)

 創は苦笑いしそうになるのを堪えながら、たとえ歌純がシールを剥がしたとしても、それがゴミ箱に捨ててあったとわかった時点で、すべてを見抜かれてしまうだろうと思った。それほどまでに、名探偵の洞察力は鋭いといえるのだ。

「次の日の朝、つまり今朝ね。異変に気づいて駆けつけた彩音さんの部屋で、あなたはこう言ったわ。『彩音さんがどうして自殺なんか』ってね。あのときは死んでいるというだけで、誰も自殺とは断定していなかった。それなのに、あなたは自殺という言葉を口にした。礼司さんと二人で計画した自殺大作戦、それが頭にあったからなのね」

「……金谷が、あいつが……」

 拳を握りしめて身を震わせる圭介の姿は鬼気迫るものがあり、その様子を目にした歌純は今度殺されるのは自分かもしれない、と恐ろしくなったのか「でも違うの、本当に違うのよ。お願い、信じて!」と叫びながら、吉田に取り縋った。

「先程の繰り返しになりますが、もう一度確認します。金谷礼司はシールを目印に、菊川さんの部屋の鍵をピッキングして侵入し、持参したナイフで脅して毒を飲ませ、机に遺書を置いた。誰も物音には気づかず、作戦は成功に終わった」

 ドアに貼ったシールや、礼司侵入の後始末など、課せられた仕事を実行できなかった歌純の不手際を差し引いても、彩音を死に追いやったという成果はあったわけだ。

「ここまではあなた方の思惑どおりに運んだんですよ。あとは金谷が再び盗難車に乗って逃げるだけだった。この推理のどこが違うのですか?」

 たとえ美人女優に取り縋られても、吉田のプロ意識が揺らぐことはなく、冷たく経緯を述べるばかりである。

「だから……それは、その……」

 激しく責める言葉に、歌純はがっくりとうなだれてしまい、その様子を見た吉田はついに降参したと思ったのか、満足そうにニンマリと微笑んだ。

「物置に入った金谷はあなたに結果を報告してから林の中の車へ戻ろうとケータイを取り出した。まさか清水さんにあとをつけられているとは知らずに……」

 あくまでも圭介を礼司殺しの犯人にしたいらしい。バカバカしくなったのか、犯人扱いを受けた当人はそっぽを向いていた。

 だが、吉田の語るその推理は一応の筋道が通るのは確かである。

 目障りなライバルを消し去ってやろうと、可憐な女優が描いた残酷なドラマのシナリオ。このドラマの立役者となった、忠実なしもべは役目を終えると消されてしまった。

 登志夫も宣昭も、一度は心を奪われた人の内に巣食う悪魔の存在に恐れを生したのか、こわごわと歌純を見つめている。

 同じ業界の仲間が企てた犯罪の恐ろしさに、思わず涙ぐむ唯、良太は青ざめた顔で唇を噛みしめていた。

 ここまできたらもう言い逃れできないだろうに、抜け殻のようになりながらも、歌純は呟き続けた。

「違うのよ……信じて……」

「まあ、えらく頑固と言うか、往生際の悪い方ですね」

 呆れる吉田、と、その時、相良の携帯電話が鳴った。

「はい、こちら相良……おう、やっぱりそうだったのか。えっ、何だって? わかった、ありがとう」

 電話を切った相良は「先生」と総一朗に呼びかけた。

「造園業者に聞き込みに行った者からの報告です。金谷が殺された凶器のロープですが、元からここにあった物でも、業者が置いていった物でもないようです」

 続いて鑑識からですが、と言い、相良は緊張した表情になった。

「ロープに付着していた長い金髪は菊川さんの髪でした。また、血液ですが、血液型はO型で、こちらも菊川さんの血液型と一致しており、金谷のA型ではありません」

「じゃあ、決まりね」

 すべて予想どおりだと、総一朗は驚きもせずに言ってのけた。

「ロープに髪の毛だって?」

「血がついていた、って、それはいったいどういうこと?」

 もたらされた情報の衝撃にどよめく人々とは対照的に、総一朗は冷静な態度を崩さなかった。それから歌純に向かって「あなたが違うと言ったのは、彩音さんの命を奪う方法のことね。だから、あなたたち二人は犯人じゃないと言い続けていたのね」と訊いた。

「たしかにあなたと礼司さんは彩音さんを殺そうとした。けれど、あなたたちが選んだのは服毒自殺ではなかった。さすがの礼司さんも、青酸化合物みたいなヤバいシロモノをちょっくらちょいと都合するなんて、簡単にはできなかったかもしれないわね。それに、大作戦としては毒物以外の方法を用いる方がいいのよ」

「えっ、それじゃあ、ロープって、もしかして……」

 思わず問い返す創に、総一朗は「お部屋で首吊りよ」と答えたのである。

    ◆    ◆    ◆

 歌純と礼司はロープを使って、彩音を首吊り自殺に見せかけようとしていた。

 事件を根本から揺るがす事実に、吉田は混乱した様子で「それはいったいどういうことですか?」と総一朗に詰め寄った。

「やーねー、警部さん。唾をかけないでよ」

「どっ、どうも失礼」

 慌ててポケットからハンカチを取り出し、口の周りを拭った吉田を見ても失笑する者はいない。

「これも万が一に備えた二人の作戦の一環なんだけど」

 椅子を踏み台に使えば、あるいは礼司なら天井に届くだろうし、彩音を吊るす腕力も充分ある。

 彩音が他殺だと判断された場合に、毒殺は女でも可能だが、絞殺した死体を首吊りに見せかけて、天井から吊るすといった作業は女の腕力では難しい。大型バイクを操れたとしてもだ。

 犯行が可能なのは男、犯人は特に腕力のある男である。従って、女の歌純は彩音殺しの犯人ではないと結論が出る寸法だ。

「何があっても、歌純さんだけは疑われないようにする用意周到さはスゴイわ。創、さっき配慮って言ったのはこのことよ」

 さて、と総一朗はポンと手を打った。

「彩音さんが大作戦で計画されていた首吊り自殺ではなく、服毒自殺の形で発見されたとき、歌純さんはさぞかし不思議に思い、混乱したでしょうね。偽の遺書が残っていたから、礼司さんが侵入したことは間違いない。だとしたら勝手に方法を変更したのか、でも、最後に会ったときにはロープを持っていたはず。それとも本当に彩音さんが自殺してしまったのか」

「ロープで首吊りなんて、そんな、だったら毒殺はいったい……」

 混迷する事態に戸惑ったのは歌純だけではなさそうである。

 先程まで礼司による毒殺説を信じ込み、それを高らかに唱えて、絶対の自信を持っていた吉田の落胆ぶりは見ていて気の毒なほどだが、相良はそうでもないらしく、むしろ総一朗の新説に目を輝かせて「先生はおわかりになっているんでしょう、もっと詳しく教えてください」と解説をねだった。

「それじゃあ、おさらいするわよ。そうねぇ、シールを目印に、礼司さんがやってきたところからにしましょうか」

 時刻は午前一時過ぎ。圭介が彩音を訪れ、あきらめて帰った直後ではないかと総一朗は述べた。圭介が閉まっているのを確認したドアの鍵が翌朝の死体発見時には開いていたという点からして、礼司があとから開けて、そのまま逃走したと考えるのが妥当だからだ。

 彩音が礼司を──不意の訪問者を──黙って招き入れるはずはないし、鍵を開けることのできる礼司の側にしてみれば、彩音が起きている時に忍び込むなどの危ない橋を渡るはずもないので、ここはやはり寝ている時を狙うと考えるべきである。

 部屋の前で様子を伺い、彩音が寝ていると思い込んだ礼司はピッキングをして室内に侵入した。誰かに見咎められる危険性もなく、まんまと中に足を踏み入れた礼司はそこで、スタンドの灯りだけを点けた状態で、花柄のネグリジェ姿の彩音がテーブルにうつ伏せているのを発見した。

 足元にはマンガの本があり、それらを読んでいるうちに居眠りを始めたのだろうと勝手に解釈した礼司はこれ幸いと、背後から忍び寄り、持参したロープを彩音に引っ掛けて首を絞めようとした。が……

「既に彩音さんは死んでいた。というか、お気の毒だけど、たぶん圭介さんが部屋の前に来た時点で死んでいたのよ」

「なっ、何だって!」

 この言葉は人々にさらなる混乱を招く羽目になった。それでは、彩音は密室で殺されていたことになるではないか。

 みんなが説明を求めようとするのを制止した総一朗はもうしばらく黙って聞いていてくれと促した。

「血の海とまではいかなくても、テーブルの上は血まみれだし、礼司さんはそりゃあ、飛び上がるほど驚いたでしょうね。ロープに彩音さんの髪の毛と血がついたのはこのとき、首に引っ掛けようとしたときよ」

 ロープに関する幾つかの謎はこれで解明した。礼司が持ち込んだ、彩音殺しの凶器になり損ねたロープ──まさか、それが自分の命を奪う凶器になるとは当人も予想しなかっただろうが。

 ところで、自分が手を下す前にターゲットは死亡。これはいったいどういうことなのか、礼司は戸惑ったに違いない。

 考えられるのは彩音が本当に服毒自殺してしまったか、それとも、自分たち以外に彩音の死を願う者がいたのか。

 否……

「そこで礼司さんはとんでもないものを発見した。テーブルの上に彩音さんが自分の血で書き残したと思われるダイイング・メッセージがあったのよ」

(よっしゃ!)

 心の中でガッツポーズをとる創とは裏腹に、

「ダイイング・メッセージですって?」

「さっきもそんな話が出ましたけど、本当にありましたか?」

 みんなの不満そうな口ぶりに、総一朗は落ち着いて、となだめた。

「テーブルの上に不自然な円形で広がった血痕がそれよ。丸く広がってるなんて、苦し紛れに引っ掻いた痕には見えないでしょう」

「やはりあれがメッセージでしたか! いや、我々もそんな気はしたのですが、ああいう状態では何とも判断がつかなかったんですよ、ええ」

 そうコメントした吉田、さっきまでの落ち込みぶりはどこへやら、早々に復活し、獲物を狙うかのような精悍な顔つきになっていた。なかなか立ち直りの早いオッサンである。

「メッセージそのものは礼司さんが塗り潰したのよ。とにかく、その出来損ないのダイイング・メッセージがあったお蔭で、アタシには今回のからくりと、礼司さんが犯人ではないともわかったし、ロープの謎にも目が向いたから歌純さんの言葉を信じられるんだけど、創、どうしてか説明できる?」

「えっ? それは……」

 ふいの質問は助手としての能力を試されているのだろうか。

 しばらく頭をひねっていた創は「もしも犯人の目の前で被害者がメッセージを書こうとしたら、手をつかむか何かで阻止されて何も残らないし、犯人が逃げたあと、被害者にまだ息があって書いたのなら、完全な形で残るはずだ。金谷が真犯人だとすれば、そのどちらかになるよな」と答えた。

「ブラボー! そうよ、そのとおり。侵入したときに彩音さんが死亡していて、尚且つメッセージが残っていたからこそ、それを見た礼司さんは文字を隠すために血をなすりつけたのよ。彩音さん自身の掌を刷毛の代わりに使ってね」

 テーブルに記された血文字。死者からの最後の伝言。

 彩音の右手をつかんで、掌に血をつけると絵の具で下絵を塗り潰すように、それらの文字を隠す。

 これが実行可能なのは吐き出された血液が凝固してしまう前である。つまり、礼司が侵入したのは彩音が死亡した直後ということになる。

「メッセージの文字を塗り潰した礼司さんは用意しておいた遺書をテーブルに置いて、ロープを持ち去った。自分たちの計画とは違っちゃったけど、とりあえず彩音さんを自殺に見せかける大作戦は完了したわけね」

「で、メッセージには何て書いてあったんだよ?」

 そこには真犯人の名前が──

 急き込んで尋ねる創に、総一朗は呆れた、という顔をした。

「そんなの決まってるでしょ」

「えっ?」

「カスミよ」

 またしても人々の間に衝撃が走り、当の歌純は真っ青になってしゃがみ込んだ。紫に変色した唇に乾いた肌、艶と輝きを失った顔は一気に歳を取ってしまったようで、そこに美人女優の面影はなく、見るも憐れで無残な姿だった。

「あらら、ごめんなさい。脅かしちゃったかしら」

 平然と言ってのけたあと、総一朗は「これはアタシの想像なんだけど、礼司さんが見てすぐにわかって、こいつは誰かが見る前に消さなきゃならない、と考える文字といえば、それしかないと思って」と付け加えた。

「そうか。他の人の名前なら消す必要はないもんな。細工をしてわざわざ自殺に見せかけなくても、その人が殺したってことで片づくわけだ」

「自分たちの代わりに、誰かが彩音さんを殺してくれて万々歳。手を汚さずに済んで助かったと、遺書とロープを持ち帰っておしまい。創、ナイスな推理よ。さっきの答えといい、なかなか名探偵の助手らしくなってきたじゃない」

 総一朗のお褒めにあずかり、創は照れ隠しにエヘヘと頭を掻いた。

「まあな。ナイスな、っていう褒め言葉はちょっとダサいけど」

 犯人を示唆するメッセージを残す場合、その人物の名前、イニシャル、あだ名などや、身体的特徴を示す言葉などが考えられるが、目にしてすぐにそうと判断するなら、そのものズバリの名前しかない。

「K・Mなんてイニシャルにされても、なかなかピンとこないし、死にかけている人が歌純という漢字で書くのも大変だと思われるから、ひらがなか、カタカナだと考えたのよ。皆さんも自分が当事者になったら、そうするんじゃないかしら、どう?」

 そう言われても、自分がダイイング・メッセージを書く場面を想像するのは気持ちのいいものではない。

 ともかく、カスミという文字を見た礼司は相棒の登場を待たずして、歌純が彩音に一服盛ったと思い込み、慌ててそのメッセージを塗り潰した。それから自殺の偽装工作をしたあと、部屋を出て、隠れ家の物置へ戻った。

「殺人現場では気が動転していた礼司さんも何とか気分が落ち着いたでしょうね。冷静に考えてみると、不審に思えることが幾つかあったのよ」

 まずは一点め、と総一朗は右手の親指を折り曲げて示した。

「歌純さんが自分に内緒で毒物を手に入れて、彩音さんに飲ますなんて考えられない。待っていれば首吊り死体になる人を慌てて殺す必要なんてないってね」

 今度は人差し指が折り曲げられる。

「次に二点めよ」

 歌純が毒を盛ったのではないとすると、彩音が歌純を犯人呼ばわりするはずもない。メッセージにその名が残されるのは妙だ。

『カスミ』──衝撃のダイイング・メッセージに惑わされてしまったけれど、これは誰かの罠である。真犯人は彩音を殺害して、歌純に濡れ衣を着せるために、偽のメッセージを書き記したのだ。

「アタシ、さっきは彩音さんがメッセージを書いたように言ったかしら? そう聞こえていたらごめんなさい、これは真犯人の偽装よ。歌純さんに罪をなすりつけるためにやったこと。偽の遺書を使おうとしていた人たちにとっては皮肉よねぇ」

 偽装、濡れ衣、罠。考えがそこに至って、礼司は愕然としたが、そのショックのせいかどうなのか、三点めの問題点についてまでは気づかなかったと思われる。総一朗は中指を折り曲げながら、そんなふうに述べた。

 ともかく、真犯人は歌純に恨みを抱いて、彩音殺しの犯人に仕立てようとしているのだから、もしかしたら、歌純自身の命も狙われるかもしれない。

 歌純が危ない! 

 急いで逃げねばならない立場も忘れ、緊急事態を知らせるために、ロープを放り出した礼司は奥を向いて携帯電話を手にした。

 三点めの問題点、それは……

『死んでいる彩音がどうやって部屋の鍵をかけることができたのか』

 しかし、忠実なる騎士は女王様を心配するあまり、ロープを拾い上げて自分自身に迫る影の存在に気づかなかったのである──

                                ……❽に続く