Ⅳ
静岡県警のパトカーが表に到着すると、僻地の別荘の内部はますます慌ただしい雰囲気になった。
所轄の捜査官と打ち合わせのあと、リビングに待機する住人と来客たちのところへやって来たのは年齢五十代後半か、髪を短く刈った、いかにも刑事らしい風貌の、目つきの鋭い男で、県警の吉田ですと名乗った。
「このたびは大変なことになったようで、詳しい事情をお訊きしなくてはなりませんが、何とぞよろしくお願い申し上げます」
バカ丁寧な口調とは裏腹に、その場にいる全員に突き刺すような視線を向ける。
恐ろしげなオッサンに睨みつけられて、みんなの緊張感はますます高まり、登志夫がぎこちなく空咳をすると、良太が貧乏揺すりを始めた。
ハンカチをもみくちゃにしながら、おどおどとした視線を送る唯、血の気が引いた顔でうつむく歌純、圭介は廃人のように無表情になっている。
宣昭は腕を組んで微動だにせず、薫は白い頬をさらに青白くさせていた。
吉田警部は自分の後ろに控えていたもう一人の刑事を紹介した。
「相良警部補です。一緒にお話を聞かせてもらいますのでよろしく」
相良と呼ばれた刑事は吉田より若く、グレーのスーツを着て、白いワイシャツに紺色のネクタイを締めている。電車に乗せればどこにでもいそうな、普通のサラリーマンで通る、ありふれた容貌の男だった。
一人ずつ別の場所で事情聴取するのではなく、全員まとめて、ここでやるらしい。
今から根掘り葉掘り質問されるだろうということで、長時間の質疑応答に備えて、総一朗と創は食卓の椅子をソファの横に並べて、九人全員が座れるよう配置した。
また、刑事たちの分もと、残りの椅子を向かい合わせに並べ、リビングは座談会の会場へと早変わりした。
「ああ、ありがとうございます。では掛けさせてもらいます」
九人と対面するような格好になった二人は人々の顔を一通り見回すと、自己紹介からお願いしますと切り出した。
「では、別荘の主である私から」
口火を切ったのは宣昭だった。
ミステリ作家として活動していること、自分の作品の映画化を記念して、関係者を父の所有する別荘でのホームパーティーに招待したことなどをかいつまんで話すと、吉田たちは頷きながら、しきりにメモをとった。
宣昭のファンは若い女性が中心とあって、吉田は作家・三島宣昭の名前を知らなかったが、相良は娘が先生の作品を読んでいましたとコメントした。
次に自己紹介したのは薫で、宣昭の秘書になって十年近く経つこと、調理師の免許を取得していて、海外や今回のような別荘行きにはたいていお供することなどを話した。
さて、これからは招待客側の番である。
トップバッターは登志夫で、職業は映画監督であると告げたあと、自作の映画のタイトルを幾つか挙げてから、宣昭が話した今回の映画は自分が撮る予定で、その縁で招待されたと説明した。
俳優たちは皆一様に、映画の主役あるいは準主役の候補として招待されたと言った。
「では、亡くなった菊川さんも同じ理由でここにいらしたんですね」
吉田の質問に四人が同時に頷く。
無骨者で、どうやら世俗にも疎い吉田は居並ぶ芸能人たちについての予備知識は持ち合わせていないようだが、年頃の娘を持つ相良は目を輝かせて、あとでサインをくれ、などと口走った。
最後を飾るのは奇妙な教授と学生の師弟コンビだ。
「天総一朗と申します。神明大学の農学部で教鞭を取っています」
そこまで言うと、総一朗は名刺を取り出して、胡散臭そうな視線を向ける二人の刑事にそれぞれ手渡した。
「専門は園芸学です。こちらはアタシの研究室の学生で、加瀬創くんです」
ぺこりと頭を下げたあと、創は総一朗に注がれる二人の眼差しに思わず吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。殺人事件かもしれないのに笑うなんて不謹慎だ、そう考えたからである。
吉田・相良両名共、このけったいなオカマの大学教授を前に、どうリアクションしていいのかわからない様子で、それでも何とか冷静を保ちながら質問してきた。
「天さんと加瀬さんのお二人はどういうわけで三島さんの別荘にいらしたのですか?」
「それは私が説明しましょう」
話を引き取ったのは登志夫で、昨日、宣昭に説明したのと同じく、自分たちをここまで案内してもらった経緯を話すと、吉田たちはまた、せわしなくペンを走らせた。
「それではこういうことですね。天さんはご自分の別荘に行くはずだったのが、岡部さんたちに会って、三島さんの別荘まで案内した。戻るつもりが嵐になって、急遽ここに宿泊したと」
「要約すればそんなところね」
相手が刑事だろうが誰であろうが、自分のスタイルを崩さない総一朗にハラハラしながら、創はその場の様子を見守った。
全員の人定尋問が完了すると、宣昭が手を挙げた。
「あの、刑事さん」
「何でしょうか」
「さっきの、伊東署の刑事さんは自殺か他殺かわからないとおっしゃったんですが、結局どう判断されたのか、詳しく説明してくれませんか」
吉田は表情を変えずに言った。
「それはこれから申し上げようとしたところです。まず、検視の結果からお話しします。菊川彩音さんは毒物を服毒したことにより亡くなりました。死亡推定時刻は昨夜の午後十一時から、今朝の午前三時までの間となっています」
息を呑んで見つめる目、向けられた視線を跳ね返すように睥睨した吉田はオホンとひとつ、咳払いをして続けた。
「風邪薬などの飲み薬に使われるカプセルがありますよね。毒物はそのカプセルを利用して仕込まれていたと考えられます。中身の薬を抜き取って、代わりに毒物を入れたというわけです」
(薬と毒の入れ替えって、犯罪によく使われる手口じゃないのかな。それともあれは小説のネタだっけ、聞いたおぼえはあるんだけど)
「服毒にあたっては、菊川さん本人がそれをコップの水と一緒に、薬を飲む要領で飲んだと思われます。誰かに無理やり口に押し込まれたのではないという意味です」
「使われたのは青酸化合物、恐らく青酸カリね。独特のアーモンド臭がしたわ」
総一朗が言葉を挟み、吉田はそちらを向いて頷いた。
(えっ、アーモンド臭なんてしたっけ?)
訝しげにそちらを見ると「青酸カリの臭いなんて、一般人は知らなくて当然よ」という言葉が返る。
「おまけにあの部屋、香水の匂いがプンプンだもの。よっぽど気をつけていなけりゃ、わかるはずないわ」
彩音が強い香りの香水をつけていたのはよくおぼえている。そのせいで、創だけでなく総一朗以外の人々は誰一人として、アーモンドの臭いに気づかなかった。
さすが、大学教授は毒物に対する知識も持ち合わせているのかと、創はここでも総一朗を見直したが、それは刑事たちも同様らしく、吉田と相良の眼差しにも尊敬の色と、わずかな戸惑いが見えた。
「さて、問題になるのは果たして、菊川さんがそれを毒物とわかっていて飲んだか、知らずに飲んだのか。それによって見解はまるっきり変わってしまいます」
彩音が青酸カリだと承知していたのならともかく、その臭いを知っているとは思えない。吉田の言いたいことはよくわかる。
「それからもう一点」
吉田は左手の人差し指をピッと立てると、「菊川さんがうつ伏せになっていた机の上に白い封筒が置いてありましたが、中をご覧になってはいないでしょうね」と訊いた。
「封筒があったのは知っているわ。本人が書いた手紙なのかと思ったけれど、宛名はないし、どちらにしても触ってはいけないと考えて、中身が入っていたのかどうかは確認していません」
そう答えた総一朗は死体発見時においての現場保存をきっちりやっておいたのだと主張した。
「それはお気遣いありがとうございます」
「で、封筒には何が入っていたんですか」
「遺書です」
「遺書?」
その場にいた人々が放つ異口同音に、刑事たちは不思議そうに人々を見回した。
「心当たりがおありになると?」
「いえ、その逆です。彩音ちゃ……菊川さんが自殺を図るなんて、とても考えられないことで。それが遺書まであるとは、いやはや、なんてこった」
そう言って登志夫はハンカチを取り出すと汗を拭き始めた。今日は昨日ほど暑くはないのに、かなり汗っかきの体質らしい。
「菊川彩音という署名がありましたが、宛名はありません。普通、両親に宛てるとか、この方の場合は仕事関係なら所属事務所の社長、マネージャー、あとは恋人や友人などが考えられますが、それらに該当する方のお名前は記入されていませんでした」
「遺書ねえ。何が書いてあったのか、差し支えなければ教えてくださいますか」
「いいでしょう。現物は鑑識へまわしましたので、私がメモしたものを読み上げます」
吉田は黒い表紙の手帳をぱらぱらとめくると、彩音が残したものかもしれないという文面を披露したが、競争の激しい芸能界がイヤになった、疲れたので先に逝きますといった、どうにもピンとこない内容で、みんな首をひねるばかりだった。
「うーん、彩音ちゃんの書いた文には思えないなあ」
登志夫に同意を求められた良太も、ええ、と力なく頷いた。
「刑事さん、その遺書ですけど」
またしても口を挟んだのは総一朗である。
「テーブルの上には便箋代わりに使えそうな、大判のメモ用紙がありましたよね。それがあったから手紙かなとも思ったんだけど、メール世代は手紙なんて書かないし。遺書に使われた紙はそのメモ用紙かしら?」
「いえ、それが……」
吉田は首を傾げるような仕草をすると、腑に落ちないという顔をした。
「遺書はワープロあるいはパソコンで書かれていました。使われた用紙はどこででも手に入る印字用の普通紙です。封筒も同様です。鑑識からの報告があればプリンターの機種などが特定されますが、とにかく手書きではない、印刷された文字だということです」
彩音が残したとされる謎めいた遺書の存在に、みんなの疑問と不安が交錯する。
「私はワープロやパソコンソフトを使わない主義ですから、ここにはそういう機械はありませんし、したがって印刷もできません」
宣昭が強調すると、相良が「あらかじめ用意されていたとおっしゃりたいのですね」と訊いた。
「はい、彩音さんがご自分で持ち込んだというのが妥当ではないかと」
「彩音さんが、というのは特定できないけどね」
またまた引っ掻き回す総一朗に、創も同意して頷く。自殺説も信じられないのに、あの女が果たして、わざわざワープロやパソコンを操って遺書を作るだろうか。
手書きでないのなら、本人の意思で書かれた遺書ではない、つまり、彩音を自殺と見せかけるための小道具である可能性は充分過ぎるほどあるし、自殺の偽装においてはポピュラーな手法だ。
「そちらの先生のおっしゃるとおりです。こういった状況で、菊川さんが自殺か他殺かは断定できないのです」
遺書は小道具、他殺説の方が圧倒的に優位だとみたが、警察は慎重だった。テーブルの上の痕跡については一切触れられない。創は思わず「あの……」と口出ししてしまった。
「何でしょうか?」
「テーブルの上に、丸い形に広がった血の痕には意味があるのかどうか、警察ではどうお考えになってるんですか?」
「その質問はもしや、あなたはあれをダイイング・メッセージか何かと考えておられるのですか」
「えっ、ええ、まあ。はっきりとした確信は持てませんけど」
「我々も同様です。その可能性も含めて調査していますが、今のところは何とも言えませんね」
気のない吉田の口調に、創は気勢を削がれてしまった。総一朗はと見れば、これまたポーカーフェイスのまま、何の反応もない。
あれはダイイング・メッセージでも何でもない、彩音が苦しみのあまり擦った単なる血の痕。思い違いだったのかと力が抜ける。
一応の結論を告げた吉田は昨日から今朝にかけて、ここで起きた出来事と、各自の行動を詳しく知りたいので、自分の質問に対する回答を求め、協力を仰いだ。
「私共は人を疑うのが商売ですから、失礼な訊き方だと、いちいち腹を立てないようお願いします。それではまず、三島先生と大東さんですが、お二人はいつ、こちらへいらしたんですか?」
「一昨日の朝です。表にある白い車を私が、ワンボックスを薫くんが運転してきました。到着してすぐに、私は仕事に取りかかりました。締め切りが近い作品があるもので……薫くんは通いのお手伝いさんと一緒に掃除をしたり、買出しをしたり、料理の準備などをして、それで一日が終わりました」
「この別荘は頻繁に使われているのですか?」
「年に五、六回、いや、もっと多いかな。私の両親や姉一家も使いますしね」
「通いのお手伝いさんとおっしゃいましたが、ご家族の留守中に、どなたかが建物に入るなどして、管理することは?」
「ありません。閉め切りのままですが、庭の手入れだけは業者の方を頼んで、定期的にやってもらっています。東側にある物置に枝切り鋏や鍬などの道具が入っているので、そこには鍵をかけずにおいてあります」
「わかりました。で、一昨日の夜はお二人方だけだったわけですね」
「ええ。次の日に備えて早めに寝ました。皆さんがいらしたのは昨日の昼……何時だったかな?」
宣昭のあとを受けて、良太が続けた。
「ボクと唯ちゃんが圭介さんの車に便乗して、ここに到着したのが午後一時より少し前です。一番乗りでした」
「お三方はあらかじめ約束して、一緒にいらしたのですね」
「はい。三人とも特に用事はなかったのですが、あんまり早く着いては迷惑なんじゃないかと思って、お昼までに着けばいいだろう、って。それで、逆算して出発時間を決めてから、圭介さんがボクたちの家を回ってくれたんですが、何しろ道がわかりにくくて……ですから、予定した時刻よりもちょっと遅く着きました」
登志夫も仕事のない日だったが、彩音の午前中の打ち合わせが終わるのを待って、そのまま乗せて出発したと言った。
「打ち合わせが長引いたら到着が遅れるかもしれないので、圭介くんたちには先に行っててもらうようにしました」
「では、道中においてずっと二人きりだったわけですね。どうですか、そのときの菊川さんに変わった様子は?」
「まったく何もありません。いつもどおりでした」
登志夫たちが総一朗と創に会った経緯は了承済である。昼食に間に合った五人と、飛び入りの二人が宣昭たちと食事を摂ったところから、夕刻までの様子が引き続き、監督と良太によって語られた。
ふんふんと頷きながら、吉田は時折、それが何時頃だったのかという問いかけをしてはメモに書き入れた。
「私は……」
覇気のない声で歌純が話し始めた。
「午後も仕事が入っていたので、遅くなるからと、その日の朝、良太くんに電話で伝えておきました。終わってすぐに、バイクに乗って……ここに着いたのはたしか、午後七時過ぎだったと思います」
「これで全員が揃ったわけですね。では、あとを続けてどうぞ」
歌純の到着と前後して、誕生日パーティーの晩餐が始まり、盛り上がりが終結に向かったのは午後九時頃。
そのあと、宣昭によって秘蔵のお宝が公開され、二千万円の宝探しが提案されたと聞くと、刑事二人は色めき立った。
「二千万とは、またえらく太っ腹ですね」
「その暗号を解いた方はいるのですか?」
「いいえ、まだです。今日の昼がタイムリミットだったのですが、こんな事件が起きてしまいましたから……」
宣昭は残念そうに溜め息をついたが、お宝ゲットのチャンスをふいにした人たちの方がもっと残念なはずである。
書斎からリビングに戻ったあとの、みんなの行動については登志夫が説明し、到着からここまでの間でも、いくらか疲れてはいたようだが、彩音の様子に変わりはなかったと付け加えるのを忘れなかった。
宣昭にヒントを訊こうとして、女二人が争ったくだりで、吉田は疑いの眼差しを歌純に向けた。
「あなたはリビングにはいらっしゃらなかったそうですが、どこでお過ごしになっていたのですか?」
「自分の部屋です。暗号の解読については誰とも相談してはいけないと言われましたし、静かなところで一人じっくり考えようと思ったのですが、何も思いつかなくて、それで先生に……」
歌純の言い分は一応の辻褄は合う。
腹を立てた歌純が再び部屋へ入ったのは午後十時より少し前で、そのあと続いて彩音が二階に上がったはずだが、持参したデジタルオーディオプレイヤーで音楽を聴いていたため、足音には気づかなかったと説明した。
「それでは、皆さんが生きた菊川さんを最後に見たのはだいたい十時頃ということでよろしいですね。そして今朝、なかなか起きてこないのを不審に思って、部屋まで行ってみたところ、亡くなっていた」
吉田の話す筋書きに相槌を打ちながら、良太が死体発見までの経緯を話すと、詳しい説明を促された唯も自分の見聞きしたところを語った。
「なるほど。では昨夜の十時から、今朝、興津さんが声を掛けた八時までの間はそれぞれどう過ごしていらっしゃいましたか? 菊川さんの部屋の付近で物音や話し声などを聞いた、あるいは不審な行動をとる人物を見た方はいませんか?」
皆、顔を見合わせては首を傾げる。
これは裏を返せばアリバイ証言でもある。自己申告のため正確とは言い難いし、ほとんどの人が部屋で寝ていたとなると、各自のアリバイは成立しづらいが、一通り訊いておく必要はあるだろう。
もっとも、不審な人物として、この中の誰かの名前を挙げることは裏切り行為──ひとつ屋根の下で過ごした者同士の──につながるから、言葉は慎重に選ばなくてはならないが。
最初に発言したのは部屋が隣同士の唯で、十一時には寝てしまったし、何も聞いていないと証言した。
厚い壁のお蔭で、隣室の物音がほとんど聞こえないというのは創も身をもって体験済みだ。唯の言葉が嘘だとは言い切れない。
バイクで走りっぱなしだった歌純も疲れたから早めに床に着いたと言い、唯と同様、物音には気づかなかったと続けた。
総一朗は十二時まで創の部屋にいたこと、自室へ戻った時、ホールは静まり返って、もちろん人影もなく、何も聞こえなかったことを話した。
「時刻が十二時だったのは確かですね」
「ええ。創のところで時計を見て、そうだと確認しましたから」
総一朗は彩音の部屋と向かい合わせの部屋にいた。そこは唯の次に近い場所なのに、何も気づかなかったのかと、創が責めるような口ぶりで問うと、教授はムッとした顔で「悪かったわね」と答えた。
「アタシも歌純さんと同じく、音楽を聴いていたのよ。そうよ、お気に入りのアレ、サイコ・キ・ネシスのニューアルバムよ」
(カーステレオだけかと思っていたら、部屋にも持ち込んでいたのかよ)
「やっぱりいいわぁ、ダイキのヴォーカル。顔はすっごくカワイイし、天性の美声ってやつで抜群の歌唱力なのよ。イケててもう、サイコー。え? そんなことは訊いていない? あらまあ、ご免あそばせ」
ともかく、向かいの部屋で人が死ぬと予知できるなら、のん気に音楽を聴くヤツなんていない。もっともな意見である。
女性スペースにいた三人にわからないのなら、ホールを挟んで反対側の、男性スペースは尚更、彩音の部屋の様子などわかるはずもない。
ビールとワインをちゃんぽんで飲んだせいで酔いがまわり、シャワーも浴びずに寝たと頭を掻く良太、アルコールを嗜まない登志夫は比較的遅くまで起きていたが、暗号にかかりきりだった上に、二つの窓が風でうるさく鳴って、廊下の物音などはわからなかったと証言した。
「……二次会ってことで、十二時までしゃべっていたのは先生が話したとおりです。そのあとすぐにシャワーを浴びて、歯磨きをして寝ました。朝までぐっすりで、何かの物音がしたとしても、目が覚める状態ではなかったです」
総一朗が部屋に戻ったあとの、自分の行動を説明したあと、お次はあんただと、創は七人目の宿泊客の方を見たが、当の圭介は何も話そうとはせずにうつむいている。
吉田と相良も発言を促すように圭介を見ていたが反応がないので、一階で就寝していた二人に対して、先に話を振った。
「階下で物音を聞いたおぼえは? 何でも結構ですから、思い出したら話してくださいますか」
「さあ……」
宣昭は自信のなさそうな、弱々しい笑みを浮かべた。
「私は夜更かしできない体質で、どんなに遅くとも十一時には熟睡しています。彩音さんと歌純さんの騒ぎのあと、皆さん全員が二階に引き揚げられたので、私も書斎から寝室に移って、すぐに寝る準備をしまして……」
「そうですか。では大東さんは?」
「後片づけに手間取ったのと、朝食の下ごしらえがあったので、部屋に戻ったら十二時を過ぎていました」
「ずっと台所にいらしたのですか? 廊下の騒ぎはご存知なかったと」
「いえ、大きな声が聞こえましたから」
「その直後に菊川さんがリビングに入ったのを見ましたか」
薫は首を傾げ、否定のポーズを取った。
「それは知りませんでした。あそこの戸を閉めて作業していましたので」
すべての用事を済ませたあと、来客全員が部屋へ引き取ったのを見た薫はこの建物中の戸締りを確認し、常夜燈以外の灯りを消して後始末を終え、自室に入ったと言った。
「今朝は六時に起きました。もっと早く起きるつもりだったのですが、何しろ疲れていたもので……朝食の準備が終わったのは七時半過ぎから八時前で、こちらからお知らせする前に、ほとんどの方は御自分で起きて、ここへいらっしゃいました」
まだ姿を見せていない二人のうち、創は総一朗が起こしてくると言い、彩音には唯が声を掛けたと聞いて、そのままにしてしまったというのが薫の言い分だった。
ある程度予想はしていたが、全員が各自の部屋で寝静まったあとの、防音効果の高い室内で起きた出来事とあって、これといった証言が得られるはずもないし、嘘をついている者がいたとして、それを看破できる状況でもなさそうだ。
腕組みをして考え込む吉田、相良は手帳を睨んだまま難しい顔をしている。
そこへ一人の捜査官が小走りにやって来ると、吉田に何やら耳打ちした。
「そうか……」
吉田が頷くと、捜査官は一礼して、また現場へと戻っていった。
再びこちらを見やると、吉田は重々しい口調で言った。
「今、鑑識からの連絡がありました。菊川さんが倒れていた机の上のコップから、本人の指紋が検出されましたが、他の人のものはついていませんでした。それから遺書ですが、封筒にも中の紙にも指紋は一切ついていません。まったく検出されなかったというわけですが、これはいったいどういうことなのでしょうか」
◆ ◆ ◆
遺書に人が触れた形跡がない──
いくら自殺をするようなタイプの女ではなく、悩んでいた様子もなかったとはいえ、状況からは自殺説に他殺説、どちらとも判断がつかなかった。
いや、創の中では最初から他殺に決定していたのだけれど、少なくとも警察は決めつけようとはしなかった。
しかし、遺書に彩音の指紋がないとすると、偽造されたものである疑いが濃厚になる。自分の遺書に自分の指紋がつかないよう配慮をする必要性はないし、印刷文字という点からして、偽造とみた方が信憑性は高い。いや、断定したと考えるべきだ。
警察側もこれは他殺、殺人事件と考えて、捜査方針は他殺に絞られる──当たり前といえば当たり前なのだが。
吉田、相良両名の目つきがずっと険しくなったようで、創は身のすくむ思いがした。
他殺説において例えば、外部の者が建物に忍び込んできて、行きずりでたまたま彩音を殺すといったパターンは有り得ない。この別荘に泊まっているのが菊川彩音であると承知した上での殺人、それを明示しているのが偽物の遺書の存在だからだ。
犯人は内部にいる。それも、遺書と毒物を用意して自殺に見せかけるという、冷酷で計画的な犯行だ。
『スーパーアイドル・菊川彩音が人気作家の別荘で殺される!』
『自殺に見せかけた他殺、犯人は顔見知りだった?』
彩音の殺害に驚愕し、それをセンセーショナルに報じる新聞や雑誌、ワイドショーのタイトルを思い浮かべると、亡くなった本人には申し訳ないが、うんざりした気分になる。
第三者にとっては興味津々、野次馬根性を刺激する出来事に違いないが、期せずして当事者の仲間入りをしてしまった。せっかくの夏休み、それもゼミ旅行の前に、こんな事件に巻き込まれるとは……
が、しかし、こうなったら徹底的に真相を究明してもらうしかない。
「困ったことになりましたね」
誰が困っているのか。
それは殺人犯の疑いをかけられる羽目になった者たちが、という意味で使っていると思いたい。捜査は面倒になるが、そいつが警察の仕事だ、いちいち困られていては一般人が困る。
「皆さんにはもう一度、お話を詳しく伺わなくてはなりませんが、それと並行して、全員のお部屋を調べさせてもらいます。よろしいでしょうね」
彩音殺しに結びつく証拠や動機に関わる品があるとも思えないが──青酸カリ入りの、残りのカプセルや、安物の封筒の余り、見るからにヤバそうな刃物をいつまでも所持するマヌケな犯人でない限り──異議を唱える者はなく、それぞれの部屋の鍵が吉田の元に集められた。
「ひとつ足りませんが……」
「あら、ごめんなさい。部屋へ置いてきちゃいました」
そう弁明した総一朗は「ドアは開いたままだが、刑事さんに鍵を渡しておいた方がいいから」と言い、二階へ行こうとした。
「あ、私も行きますから。二階の者に指示を出さなくてはならないので、皆さん、しばらくお待ちください」
吉田と総一朗は並んでホールに出た。
鍵は捜査員たちに渡ったらしい、全館にて一斉捜査が始まり、それと同時に二人が戻ってきた。
「お待たせしました」
再び椅子に腰掛けると、居並ぶ人々をその鋭い目で見回した吉田の視線は歌純のところで止まった。
昨夜のいざこざから、自分がもっとも疑われているとわかったからか歌純は身を固くして、それでも刑事の視線を撥ね退けようと睨み返した。厳しい世界で頑張り続けているだけあって、なかなか気丈な女だ。
やはり一番の容疑者は歌純か。だが、ここで大きな問題点がある。彩音は自分で毒を飲んでいるという点──
まさか、これは仲直りのしるしだと、ライバルが差し出したカプセルをほいほいと飲むとは思えないし、何とか飲ませようと、刃物などを使って脅したとしても、部屋へ歌純を入れる時点にドア付近ですったもんだがあったと予想がつく。いくら何でも、その物音まで聞き逃したとは考えにくいが……
歌純に比べると、それぞれ程度の差はあったとしても、残りのメンバーが毒入りカプセルを飲ませるのはまだ容易である。
頭が痛いと言っていた彩音に、これはよく効く頭痛薬だとか、あるいは元気になるビタミン剤などと偽って渡せば、疑いもせずに飲むだろう。いや、現に飲んでいるのだ。
つまり、一番の容疑者が一番殺害しにくい状況なのである。これは難問だが、それはさて置くとして──
吉田はいきなり本命に質問するような真似はせず「では興津さん」と、まずは唯から攻撃を再開した。
「えっ、は……はい」
名前を呼ばれた唯は身体をビクリとさせ、表情を固くした。
緊張しまくっている姿を見やりながら、創は動機という点で、全員に対する疑いを改めて考察してみようと思った。
他殺を念頭に置いて、現時点で彩音を殺害する動機が一番強いのはライバルの歌純だが、傍若無人な彩音を快く思っていないという点で、歌純ほどではなくとも、唯にも同様の動機がある。恋人の良太は彩音にまだ未練があるという話だし、それを知った唯が嫉妬から彩音への憎しみを募らせても不思議ではない。
「もう一度、昨夜の行動をお訊きします。あなたは十一時に就寝し、菊川さんの部屋の物音は何も聞こえなかった、というのは本当ですね?」
「……はい」
「そして今朝、朝食に行く際に、部屋の前で声を掛けたが返事はなく、そのまま一人で一階に下りた。ところで、どうして声を掛ける気になったのですか?」
この質問にはふいを突かれたらしく、ハッとした表情になったあと、唯はいつもの、おどおどとした様子で吉田を見た。
「どうして、と言われても……」
「起こしてくれと頼まれていたのですか?」
「いいえ、頼まれてはいません」
「あなたは菊川さんと仲がいいわけでもなくむしろ、反感を持っていたように見受けられますが、そんな人を親切にもわざわざ起こしてやろうなんて思いますかね」
言われてみればそうだ。昨夜、彩音にいい子ぶってると言われて不愉快な顔をした唯を思い出す。
しかし吉田はいつの間に、この中の人間関係、特に男女関係を調べていたのだろうと思っていたら、総一朗が意味ありげな様子でこちらを見て、合図を送ってきた。
(なるほど。センセイ、なかなかやるじゃねえか)
鍵を忘れたふりをして、二階で交遊図の内容を吉田に告げたのだ。すべては教授の作戦だった。
「ですから、それは、その……」
しどろもどろになる唯を見兼ねて、良太が思い切ったように発言した。
「唯ちゃんはボクの部屋にいたんです。嘘をついてすいませんでした、まさか、こんな事件が起こるなんて、思ってもみなくて」
訝しがる吉田に、良太は二人の本当の行動を説明した。
いったんは部屋に入ったものの、唯は嵐の音が怖くて眠れないと訴えて、十一時頃に良太のところへ来た。
それでも十二時までには眠りについたという。朝六時にこっそりと戻り、シャワーと着替えを済ませてから、自分の部屋にずっといた、いかにもそこから出てきたと見せかけるため、唯はまだ一階に下りていない様子の彩音に向かって声を掛けたのである。
「人の別荘に来てまでそんなことを、と思われたくなかったものですから」
(なんだこいつら、お楽しみだったのかよ)
呆れる創だが、この証言により、昨夜の十一時から今朝の六時まで、彩音の隣室に『聞く耳』はなかったことになる。
つまり、壁を通して聞こえるような物音がしても、そこで何事かが起きていたとしても、誰にもわからなかったというわけなのだ。
(いや、まてよ。二人で一晩過ごした、ってのが逆に嘘かもしれないぞ)
一見、好青年でも、心に悪魔など潜んでいないとは言い切れない。
振り向いてくれない彩音に対しての憎さ百倍、そんなライバルを葬るために、恋人が手を貸す──二人でいたと偽のアリバイ証言をする可能性は充分ある。
自殺に見せかける作戦は失敗に終わり、彩音の他殺説が確定したため、今になって最初の証言を翻したのではないだろうか。
「お気持ちはわかりますが、そういう嘘をつかれては困りますね。何しろこれは殺人事件ですから」
『殺人事件』の部分を強調すると、吉田は良太をジロリと見た。
「すいません」
「あなた方お二人の話はわかりましたが、嫌疑が晴れたわけではありませんから、承知しておいてください」
唯と良太の共謀説。創と同じことを今、吉田も考えていたのだろう。
次に、白羽の矢が当たったのは登志夫だった。
(監督かぁ。犯人の可能性は低いけど、まったく無関係とは言えないよな)
「はあ、昨夜ですね、何度も申しますが……」
登志夫の汗の量はますます増加したらしく、ハンカチを絞ればぽたぽた出てくるのではないかと思われるほどだ。
「ずっと暗号の解読に没頭してましてねぇ。いえ、まったくわからないままなんですが、今夜はもうやめて、明日に賭けようとあきらめをつけたのが一時、いや、もっと早くて十二時半ぐらいだったかな。ベッドに入ったはいいが、雨風やら、窓や雨戸が鳴る音やらがガタガタやかましくて、なかなか寝つけませんでね。ずっとウトウトして……」
「ちょっと待って」
登志夫の、まとまりのない話の腰を折ったのは総一朗だった。
「監督の部屋の窓って、雨戸があるの? アタシの部屋の窓にはなかったけど。創のとこもないわよね」
「うーん、よく見てなかったけど」
それを聞いた宣昭がこの建物で雨戸を設置した部屋はないと説明した。
「そうですか。そういえば雨戸を閉めたおぼえがないな。自宅の、自分の部屋で寝ているつもりで、そう聞こえたのかもしれません。寝惚けていたんでしょうかねぇ」
とぼけている、とも見える登志夫に苛立ちを感じていたのか、吉田は「朝まで一歩も部屋から出なかったとおっしゃりたいのでしょうが、嘘をつくと御自分のためになりませんよ」と皮肉っぽく言った。
「あなたの立場なら、菊川さんに疑いを持たれずに部屋へ入ることができますしね」
「それは私が現役のオトコとは認められていない、という理由からでしょうか。いやぁ、見くびられたものですな」
緊張のあまり汗をかいているのかと思えば、吉田の攻撃を下ネタでかわす余裕を見せる登志夫に、一筋縄ではいかない本性を垣間見た気がする。
夜中に彩音の部屋を訪れたとしても、怪しまれずに中へ入れてもらえる人物としてはなるほど、吉田の言うとおり信頼度ナンバーワンだ。
歌純とはお互いに遊びで、といったニュアンスで語っていたが、じつは本気だった。女を想うあまり、ライバルを抹殺したかもしれない。自分への信頼を逆手に取って、彩音に毒を飲ませたという筋書きは否定できないのだ。
けっきょく、登志夫自身の発言からは本人が白か黒かを判定する内容は聞かれず、良太と唯に続いて、この男もまた、グレーゾーンに残ってしまった。
宣昭や薫に関しては、これといった動機は思いつかないが、エリナ役を歌純にするために邪魔者を消したいということで、宣昭には登志夫と同じ理由づけがこじつけられるし、薫はそんな宣昭の命令に嫌でも従うだろう。
(この二人を疑うのはちょっと無理あり、だよなぁ。だいたい、ワープロ印刷の遺書を作るってのが不可能じゃないか)
しかし、薫が宣昭の指示により、どこかで作成してくるという手段が使えるという考えに至って、「絶対に不可能」ではないと創は思い直した。
宣昭はいくらか不機嫌な様子で、何度訊かれても答えは同じだと言った。
「十時過ぎに寝室へ入って、入浴してすぐに寝ました。ええ、私はシャワーを浴びるだけというのが嫌いで、必ずお湯を張ることにしているんですよ」
機械が嫌い、シャワーが嫌いと、嫌いなものが多くて、子供っぽく我儘な男だというのがよくわかる発言である。
「朝は五時半に起きて散歩するのを日課にしていますが、雨だとわかっていたので、六時半まで寝ていました。熟睡していましたから、その間の物音は何も聞いていませんし、彩音さんの部屋を表敬訪問するなどという、不埒な行動も一切行なっておりませんので、あしからず」
訊かれる前に否定しておこうという作戦に、苦笑いをした吉田は「お話は伺っておきますが、あくまでも自己申告ですから」と釘を刺した。
「私もお答えする内容に変わりはありません」
青白い顔をして、いくらかうつむきながらも、薫はしっかりした口調で答えた。
「皆さんがお休みになられてから、私が自分の部屋に入るまで、特に変わったことはありませんでした。ただ、余程大きな物音でもしない限り、二階の様子はわかりかねますので断言はできませんが」
「昨夜は一度も二階には上がっていないとおっしゃるのですね。この家の消灯係はあなたでしょう、廊下の灯りはどうするのですか? 一部を残して消えていましたが」
「スイッチが階段の上り口、下り口にありますから、上り口のところで消しました。消すと申しましても、この辺りは街灯がありませんから真っ暗になってしまうので、常夜燈だけが点いたままになるよう設定したスイッチがあります。一階と二階の廊下の灯りも連動して点灯・消灯するようになっていますので、動作は一箇所で済むため、わざわざ二階に上がる必要はありません」
そこで捜査員の一人を呼んだ吉田は薫の説明どおりにスイッチが作動するのかどうかを確かめるよう指示してから、質問を続けた。
「灯りは何時頃に消しましたか」
「十二時半ぐらいだったと思いますが」
総一朗が創の部屋を出た時には全部の照明が点いていたので、時間の辻褄は合う。また、偽の遺書のお蔭で、総一朗と創は嫌疑の外に置かれたと断言してもいい。これは計画的殺人だ。偶然出会った彩音に言い寄って振られ、腹いせに殺した、などという陳腐なストーリーが語られることはないのだ。
何か言い忘れたことや、思い出したことがなければ敢えて訊く必要はないと、師弟コンビへの質問はカットされ、次に吉田が何か言いかけようとした時、「違う……」と呟く声が聞こえた。
圭介だった。さっきから一言もしゃべらなかった男がここにきて、初めて口を開いたのである。
「違う、違うんだ」
恋人を失って気が変になってしまったのか、狂ったふりの演技をしているのか。
ぶつぶつと呟く圭介を見咎めて、吉田はそちらに声を掛けた。
「どうしたんですか、清水さん。何か思い出したことでも?」
すると圭介はハッとしたような表情をして、それからこう言った。
「彩音は生きている、生きているんだよ」
おいおい、あれで生きているわけねえだろと突っ込みたくなるのを堪えて、創は次の展開を待った。
「どうして生きているとおっしゃられるのですか、何か思い当たる節でも?」
さすが百戦錬磨の男は無碍に突っ込みなどせずに、頭がおかしくなったのではと思われる圭介から、上手に言葉を引き出そうとしている。
「鍵が……鍵がかかっていたんだ」
「ほう、それは菊川さんの部屋の鍵ですか」
圭介はこくりと頷いた。
彩音の死体を発見した時点で、窓の鍵がかかっていたのを総一朗が確認している。窓からの侵入が不可能なら、秘密の抜け穴でもない限り──それは建物の構造上、有り得ないが──犯人が出入りしたのはドアのみ。その鍵がどうなっていたかは重要な問題である。
「俺はあいつの、彩音の部屋に行ったんだ。喧嘩騒ぎのあとで苛立っているだろうから、機嫌を取ってやろうと思って。頭が痛いって言ってたのも気になったし……」
「それは何時頃ですか」
「たぶん……一時は過ぎていたと」
そんな時間に訪問して、彩音が寝てしまっているとは考えなかったのかと思いつつも、みんな黙って聞いている。
「そっちの二人が」
圭介は創たちの方を顎でしゃくった。
「まだ起きている様子だったから、あんまり早くには廊下に出られなかった」
圭介と創の部屋は向かい合わせである。それっていわゆる御門違いじゃないか、オレたちのせいみたいに言うなよ、とさらなる突っ込みを胸の内に押しとどめて、創は圭介をねめつけた。
片や貴公子、片やヒーロー。
二人の色男の間に飛び散る火花を総一朗はニヤニヤしながら眺めている。無責任なヤツだ。
「では、あなたの行動はこうですね」
もっと要領よく話してくれとばかりに、吉田は圭介の話をまとめにかかった。
「夜中の一時過ぎに、天さんと加瀬さんが寝静まったのを見計らって、菊川さんの部屋へ行き、ドアをノックした」
吉田は圭介の反応を見ながらそう解説すると、質問を交えて続けた。
「ノックしたときの応答は?」
「ありません」
「そこで声を掛けたのですか?」
「はい。でも、夜中だったし……」
「大きな声は出せなかった」
もちろんだ、と圭介は大袈裟に頷いた。
「声を掛けても返事はない。当然、眠っていると思われたのですね」
「ええ、それでも気になって、ドアノブを引っ張ってみたんです。開きませんでした」
「鍵がかかっていた、つまり、その時点では菊川さんが生きていたから、とおっしゃりたいのですね」
圭介が訪れた際には、彩音は何らかの理由でドアを開けなかったが、そのあと、誰かが訪れた時は──誰かとは恐らく犯人──中へ招き入れたということになる。
そうなると彩音の死亡推定時刻はさらに絞り込まれ、午前一時過ぎから三時の間になるが、二時間縮まったからといって、アリバイが確実になる者はおらず、状況は変わらないままだ。
「清水さん、まさか自分から疑いを逸らすために、そのような話を始めたのではないでしょうね」
「何だと?」
圭介は物凄い目つきで吉田を睨んだ。
「本当はあなた自身が行ったときに、菊川さんが部屋の鍵を開けて……」
「俺が彩音を殺したとでも言うのか? ふざけるな!」
そこまで黙って聞いていた総一朗が再び口を挟んだ。
「まあまあ刑事さん。今のお話は自分以外の誰かを犯人と特定できるものではないから、圭介さんにとって有利でも何でもないわ。嘘をついてもしょうがない内容ってことよ。ところで彩音さんの部屋の鍵は?」
「本人が持っていました。寝巻きのポケットに入っていたのを確認済みです。ちなみに、ついていた指紋は本人のものだけです。ところで、皆さんの部屋の合鍵というのは存在するのですか?」
吉田の質問に宣昭が答えた。
「はい。私の書斎に置いてある金庫に保管してありますが、これを勝手に取り出すのは絶対に不可能です」
金庫は宣昭、薫、総一朗、創の四人が結託しなければ開けられない。
普通に考えれば、犯行のあった時間帯に誰かが合鍵を持ち出すなど、決してできなかったはずだと宣昭は強調した。
「なるほど」
そう言って、吉田はまた腕組みをした。
圭介の証言が事実であるとした上で、彩音の部屋の鍵を巡って、幾つか考えられることを創は自分なりに頭の中で考え、整理してみようと試みた。
まず、部屋へ入るにあたって、犯人は鍵を使うことができない。圭介が去ったあと、彩音自身が何らかの理由でドアを開けたとみるべきだし、もしも閉め忘れたところに犯人が入り込んだとすれば騒ぎになるだろう。ここはやはり、本人が招き入れたと考えるのが妥当である。
そして彩音を殺害したあと、犯人は鍵の在り処を捜すまでもなく、その場を去った。
なぜ鍵を捜さなかったのか。
犯行現場に長居は無用、死体の発見を遅らせる小細工よりも、一刻も早く立ち去りたい。いくら真夜中とはいえ、犯罪者の心理としては当然である。
それに彩音を自殺と見せかけるのなら、部屋を密室にするのは効果的だが、鍵がその場から紛失してしまうのはまずい。誰かが鍵を使って細工した、すなわち、自殺にみせかけた他殺だと即座にバレてしまうからだ。
(まてよ。あとでこっそり戻しておけば密室もあり、じゃねえのかな)
もしも、今朝……と創は想像した。
彩音の部屋へ行った時、鍵がかかっていたとする。
もしかしたら具合が悪くて起きられないのかもしれない、と誰かが言い出せば、金庫を開けて合鍵の出番となるだろう。
もちろん犯人は彩音が死亡しているとわかっているから、死体発見の騒ぎのどさくさに紛れて、鍵をそこらへこっそり置けば密室の出来上がりだ。使わない手はない。
ところが、彩音がポケットに鍵を入れているとは気づかなかった、よって、密室作戦は諦めた──のだろうか。
(あー、もう。何がなんだかわからなくなってきた)
混乱しているのは創だけではない。
みんなの所持品からは犯行に結びつくような品物は出てこなかったという報告を受けて、二人の刑事はますます難しい表情になった。
それでも室内の捜査を引き続き行なうように、また、このリビングやキッチンも、建物中を対象とするように命令が下された。
四人の芸能人と映画監督は神妙な顔つきのまま、居心地悪そうに座っている。
やがて、苛立ちがピークを迎えたらしい圭介が宣昭に向かって吠えた。
「あんた、ミステリ作家なんだろ? これぐらいの謎がわからないのかよ、誰が犯人なのか、早く当ててみせろよ!」
「そ、そんなことを言われてもですね、小説の中と、実際の犯罪とは訳が……」
戸惑う宣昭に、圭介は悪態をついた。
「何がセレブ探偵だ、バカバカしい」
「圭介くん、落ち着いて」
登志夫がなだめると、荒んでしまった二枚目はプイとあちらを向いた。
薄っぺらなセレブ探偵では太刀打ちできないほど、難しい謎というわけか。思わず苦笑いしてしまう。
気詰まりなムードの中、吉田が金庫の中を見せてくれと言い出した。合鍵を取り出すのは不可能だ、と宣昭は言い切ったが、本当にあるのか確認したいらしい。
承知した宣昭は薫、総一朗、創と共に書斎へ向かい、その後ろを吉田がついて来た。あとのメンバーは相良の監視の元、リビングに残った。
金庫には合鍵の他に、宣昭が自宅から持ってきた数個の宝石と、昨夜からはみんなの携帯電話、車の鍵が入っていると聞いて、吉田は「ほほう」と感心した。
それが宝探し参加への条件だったこと、総一朗の提案で、今も保管の状態にあることも付け加えられた。
「警察の方の判断を仰ぐまでは、なるべく今までと同じ条件にしておいた方がいいと思ったのよ。だから薫さんの電話だけを出して、もう一度しまっておいたの」
そう説明した総一朗は電話と鍵をみんなの手元に戻してもいいかと尋ねた。
「いいでしょう。ただし、ケータイの電源は切っておいてください」
ところが、金庫のご開帳はお預けになってしまった。捜査員の一人が吉田のところへ大慌てで駆け込んできたからだ。
「たっ、大変です!」
「どうした?」
吉田は捜査員の青ざめた顔を不審そうに見やった。
「外にある物置の中で……」
捜査員は東の方向を指差した。
「男が……若い男が殺されています」
……❻に続く