MY MEMORANDUM

オリジナル小説を公開するブログです

サファイアの憂鬱 ❹

    Ⅲ

 思っていた以上に疲れはひどく、深い眠りについていた創が目を覚ますと、時刻は八時をまわっていた。

 窓の外は薄暗く、相変わらず雨が降り続いている。フットライトを消して、天井の灯りを点けた。

「創、起きなさいよ。朝ごはんだって」

 ドアの向こうから総一朗の呼びかけが聞こえてきた。

 先に行っててくれと返事をしたあと、急いで着替えを済ませ──昨日の服装と大差ない、今度は白地にロックテイストのボカシプリントTシャツとブッシュジーンズだ──バスの横にある洗面台で顔を洗い、髭剃りもそこそこに部屋を飛び出す。

 食卓にはこれまたお疲れの表情をした人々が揃っていた。

 普段は夜更かし三昧の生活だが、九時から始まる暗号解読タイムのために、頑張って早起きをした者もいるだろう。

 登志夫は緑から赤のポロシャツに衣替えだが、その顔色は冴えない。夜明け近くまで暗号と格闘したのだろうか、成果は芳しくなさそうだ。

 黒いワイシャツに金のネックレスをした圭介と、これまた黒のカットソーを着た歌純はすっかり焦燥し、髪まで乱れて天下の美男美女が台無しである。その暗い顔つきのせいで黒い服がまるで喪服のように見えた。

 色違いで同じデザインのTシャツを着た良太と唯、いつもは愛想のいい二人の表情からも笑顔が消え、ハードな家政婦仕事の連続からか、常に取り澄まし、感情を表に出さない薫も疲れきった顔をしていた。

 元気なのは宣昭のみで、一人だけ血色がいい。創の姿を見ると「おはようございます」と声を掛けてきた。

「おはようございます、お待たせしてすいませんでした」

 その場の人々に軽く頭を下げて、創は総一朗の隣に座った。

 トップスはラメ入りのブルーのワイシャツの上にシルバーグレーのジャケット、ボトムは黒の革パンツ。手首に巻いた銀のブレスレットが袖口から覗き、並み居る芸能人を押し退けるド派手さはさすがと言うしかない。

 創の視線を受けて「どう? オシャレでイケてる大学教授はいかが?」と臆面もなくのたまった。

 どうと言われてもコメントのしようがないので「そりゃまあ、あの演歌歌手かマジシャンみたいなスパンコールのジャケットよりはマシだと思うけど」と感想を述べる。

「あら、あれは舞台衣裳よ」

「衣裳って、田舎のヘルスセンターに来たみたいじゃないか。歌って踊れる、の間違いじゃねえのかよ」

「インパクトがあった方が講義を受けるのにも楽しくていいでしょう、眠気覚ましにもなるし」

「眠気は覚めるけど、眠れなくなるぜ。悪い夢を見そうでさ」

「アタシの夢を見てくれてるの? 嬉しいわ、感激よん」

「アホか」

 飛び交うハートマークをかき消して、食卓の上に目をやると、こんがりと焼けたトーストとハムエッグから湯気が立ち昇っている。ミルクにサラダ、ジャムの瓶などが並び、食後のコーヒーカップも用意してあった。

「あとは彩音さんだけですね」

 すると「それが……」と、もじもじしながら唯が口を開いた。

「ワタシ、隣の部屋だから、ここに来る前に声を掛けたんですけど返事がなくて。まだ寝てるのかな、起こしちゃ悪いかなと思って、そのままにしてしまったんです」

「しょうがないな」

 登志夫が呆れたように呟いた。

「あのワガママ娘め。いつものペースでお寝坊か」

「もう一度起こしてきましょうか?」

 彩音が起きてこないことに責任を感じる必要はないのだが、唯はみんなの様子を伺いながら訊いた。

「いや、もうちょっと待って、九時を過ぎても起きてこないなら行けばいいさ。それよりメシにしよう」

 前日の晩に遊び過ぎて寝坊、翌朝の仕事に遅刻するといったパターンは彩音の日常においては珍しくも何ともなく、登志夫は事も無げに言ったが、朝食が終わっても、時刻が九時をまわっても、彩音が起きてくる気配はなかった。

「これで宝探しは一人脱落かな」

 軽い気持ちで言ったつもりだろうが、誰も反応しないので、良太は取り繕うように「それじゃあ、ボクと唯ちゃんで見てきますよ」と名乗りを上げた。

「俺も行こう」

 圭介も立ち上がり、三人がホールへ出たのを見ると、総一朗は創に合図をした。

「行くわよ」

 なぜ、という疑問は引っ込められた。教授の、その表情がいつになく厳しいものだったからである。

 先の三人に続いて階段を上る。階段も、二階のホールも真っ暗闇にならないようにと、常夜燈代わりの間接照明が昨夜からぽつぽつと点いたまま、か弱い光を放っている。

 そこから斜め右に見える彩音の部屋のドアは固く閉じられ、何も聞こえてこない。

 部屋の前に立つと、唯が声を掛けた、

「彩音さん、彩音さん。起きていますか? 返事をしてください、もう九時ですよ」

 不気味なほどに静まり返る空間、風が木々を揺らし、雨が建物を打ちつける音だけが響いている。

 なぜだか嫌な予感に襲われて総一朗を見ると、そちらも難しい顔をしたまま、ドアを見つめていた。

 今度は圭介が「おい、彩音ちゃん。いつまで寝ているんだ?」と呼びかけたが、やはり何の反応もなく、何気にドアノブに手をかけた良太の表情が驚きに変わった。

「鍵が開いてますけど」

「えっ?」

 若い女が部屋に鍵もかけないで寝るとは思えないが、ここは建物内でもあるし、万事にだらしのない彩音なら有り得なくもない。

「起きて部屋から出たのかも」

 言い訳するように同意を求める唯に、後ろで見守っていた総一朗が尋ねた。

「朝食前に声を掛けたとき、鍵はかかっていたの?」

「さあ。今みたいに話しかけただけで、ノブには触りませんでしたから」

 自信なさそうに答える唯に、了解した総一朗は「そう。それじゃあ、唯さんが先に入ってみて。お風呂や着替え中じゃ困るでしょうから」と促した。

「は、はい」

 泣き出しそうな顔をしながら、唯は恐る恐る室内へと足を踏み入れた。

「彩音さん、入りますよ。彩音……」

「どうかしたの?」

 唯の声が途切れたため、待機していた四人も中へ入る。

 天井の灯りは点いておらず、南の窓もカーテンが引かれていて薄暗い。クリーム色の生地の向こうにどんよりとした空が見え隠れしている。

 窓の下の位置に、創の部屋では北側にあるものと同じテーブルがあり、置かれた備品もまったく同じで、小さなスタンドのオレンジ色の光がテーブルの狭い範囲を細々と照らし続けている。

 黒地にショッキングピンクの花柄模様が入ったネグリジェ姿の彩音はこちらに背を向け、そのテーブルの上にうつ伏せていた。両腕を前方に投げ出し、その間に頭を挟んだ、突っ伏したというか、バッタリと倒れ込んだような格好だ。

 椅子に腰掛けてはいるが、それが不自然なほど後ろに引いてある。足元には持参したらしいコミック本が散らばっていた。ここでマンガを読んでいるうちに眠ってしまったのだろうか。

 近寄ったとたん、唯は悲鳴を上げた。

「……死んでる!」

「なっ、なんだって?」

 続いて覗き込んだ創も悲鳴を上げそうになった。

 自慢の巻き髪を左右に垂らし、右に傾けた彼女の顔は吐瀉物にまみれ、断末魔の苦悩が張り付いていた。

 土色に変色した肌には暗赤褐色の死斑が浮き出て、爪で引っ掻いたらしく、喉には無数の傷跡が、また、右手の掌にはベッタリと血がこびりついていた。アイシャドウに縁取られた目を大きく見開き、歪めたルージュの端にも赤黒い跡を滲ませた顔はもはや、トップアイドルと謳われた女性のものではなかった。

 その、世にも恐ろしい形相は見た者すべての脳裏に焼きつき、夜毎の悪夢を招くに違いあるまい。

 小悪魔・菊川彩音はこうして謎の最期を遂げたのであった。

    ◆    ◆    ◆

 呆然と立ち尽くす人々の中で、唯一平常心を保っていたらしい総一朗は彩音の脈がないことを確認すると、首を横に振った。

 それから「みんな、ここにあるものに触っちゃダメよ。そちらのお三方、サスペンスドラマに出たことあるでしょ。警察が来るまでは絶対にね」と強く言い渡した。

 初めて目にした変死体に、眩暈と吐き気をもよおしていた創は総一朗の、その言葉に落ち着きを取り戻し、いつになく頼もしい教授を見つめた。

「それって殺人現場の保存? 他殺だってことか」

「他殺か自殺か。病死の可能性もあるし、この状況だけでは何とも言えないけどね」

 そう言いながら、総一朗はカーテンを少し持ち上げ、窓のクレセント錠がかかっているのを確認した。

 恐ろしくも奇妙な光景だった。

 アイドルのネグリジェ姿が──それもかなりセクシーなデザインの──拝めるなんて、本来なら超ラッキーというやつだが、ネグリジェを着ているのが変死体とあってはおぞましいだけである。

 魂を抜かれたような顔をして良太と唯がテーブルの傍から後ずさり、圭介は無言のまま佇んでいたが、やがて狂ったように「彩音、彩音、しっかりしろ!」と叫び、死体に取り縋ろうとした。

「あっ、触っちゃダメ!」

 必死に制止する総一朗を見て、創も手助けに加わった。恋人を失ったという現実が受け入れられない気持ちはわかるが、現場を荒らされては困るのだ。

「手を離せ! 彩音は生きているんだ、昨夜だって……早く、早く救急車を呼べっ!」

 二階の騒ぎを聞きつけて、残りのメンバーが上がってきた。

 暴れる圭介と、それを取り押さえようとしている総一朗たちを見た登志夫が加勢して、横面を張り飛ばした。

 長身の身体は向こう側へ軽々と転がり、豪腕の監督に吹っ飛ばされた哀れな二枚目俳優はそのままおとなしくなると、ベッドの脇でじっとうずくまってしまった。

 彩音が死んだと聞かされた宣昭たちは一斉に驚き、窓際の死体に目をやると表情を凍りつかせた。

「これはいったい……」

 艶やかな花柄のネグリジェを着た、アイドルの変死体──

 皆、目の前の惨状に声を失い、蝋人形のように固まり、突っ立っている。重苦しい沈黙が辺りに漂った。

 人々が呆然としている中でも、総一朗は死体に一番近い場所にいながらテーブルの上を冷静に観察中であり、その様子を見た創も自分なりにチェックを入れてみた。

 白い封筒のようなものがスタンドの傍に置いてある。使えるメモ用紙もあることだし、彩音は手紙を書き終えてから、マンガを読み始めたのか。

 右腕から二十センチほど離れた位置にコップがひとつ転がっており、中身の水がわずかにこぼれていた。

 それは洗面台に備え付けのプラスチック製のコップだ。部屋で歯磨きをした時に使用した物と同じ種類だし、彩音は洗面台でコップに水を汲み、テーブルの上まで持ってきたと見て間違いない。

(あれ、何だろう?)

 右手の置かれた位置に子供が絵の具をいたずらしたような、血をべたべたとなすりつけた痕が歪んだ円を描いている。

 右の掌が左に比べて汚れているのはそのせいだとわかったが、被害者が苦しさのあまりテーブルを引っ掻いたのだろうか。

 それにしては不自然だ、それが引っ掻くという行動の結果ならば、通常なら掌ではなく指を使うはずだし、こんな形で残るとは思えない。

(まさか昨夜、話題になったダイイング・メッセージってやつ? でも、あんな変てこな丸じゃメッセージになってないし。オレの考え過ぎかなぁ)

 総一朗も当に気づいているだろう。本格物マニアの教授に意見を聞きたいところだが、そんな質問をするのも憚られているうちに「どうして彩音さんが自殺なんか……」と歌純が呟いた。

 すると、その言葉を聞いた登志夫が首を傾げて「この子が自殺をするとは思えないけれど」と反論した。

 ようやく正気に返った人々が騒ぎ始めたのを見た総一朗は静まるよう諌めた。

「こんなことが起きてしまったとあっては宝探しも何もあったもんじゃないわ。まずは警察を呼びましょう。三島先生、よろしいですね?」

 宣昭は苦々しい顔をして頷いた。芸能人を招いたはずが、警察まで招く羽目になるとはとんだバースディパーティーだと思ったに違いない。

 とりあえず書斎へ移動する。金庫を開けて携帯電話を取り出し、警察に連絡しなくてはならないからだ。

 すっかり力が抜けてしまった圭介を登志夫と良太が支えながら、全員が部屋の外に出ると、最後に出た総一朗がノブをハンカチで包みながらドアを閉めた。

 一階へ下りると、宣昭を先頭にぞろぞろと書斎へ入る。昨夜と反対の手順で金庫が開けられ、薫が代表して電話をかけた。

 菊川彩音という女性が部屋で変死している。それ以上の詳しいことはわからない、とだけ告げればいいと総一朗が助言し、言われたとおりにした薫はボタンを切ると「すぐにこちらへ向かうそうです」と告げた。

「それじゃあ、また連絡が入るかもしれないから、薫さんの電話だけ出しておいて、あとは元通りにしまいましょう」

 なぜそんなことを、という反論は聞かれなかった。

皆、総一朗に従い、今度はリビングに移動して、警察の到着を待つことにした。

 ソファに腰掛ける者、絨毯に座り込む者、誰もが沈鬱な顔をして無言でいる。

例によって食卓の椅子に座った総一朗はみんなの様子を伺いながら、創の耳元にそっと囁いた。

「人間観察のお時間よ」

「疑ってるのか?」

「まあね」

 死因は──医者でない創には何かの病気を発病したことによる病死かどうかはわからないが、そうでなければ毒を飲んだ、飲まされたと考えるのが妥当である。

 自分でコップに水を汲み、毒物を飲んだとなると自殺だが、登志夫の言うように、彩音には自殺をする理由がない。

 ましてや、初めて訪れた他所の別荘で、コミックを読み散らかした部屋で、ネグリジェを着て自殺を図るなんて変だ、普通では考えられない。

 もちろん、人には言えない、自殺したくなるほどの悩みなどまったくなかった、とは言い切れず、発作的に……だが、彩音という人物を知る限り、その可能性はまずないと言っていいだろう。

 残るは他殺説。もしも他殺だとしたら、それはもちろん毒殺と考えて間違いない。

 まず、頭部に殴られた形跡がない。服の下に打撲の跡があったとしたらわからないが、身体を殴られたのが原因で死に至った様子には見えない。

 唇以外に出血が見られないので、刃物は使われていないというのも歴然としているし、頸部に絞められた跡もないから扼殺でもなさそうだ。

 喉に残る傷は毒を飲んだ時、苦しみのあまり自分で引っ掻いたと見られるが、力ずくで口をこじ開けられて、毒物を放り込まれたのか、それとも犯人に上手く言い包められるか、脅されるかして、自ら飲んだのか。

 ここで即断はできないが、後者と見た方が確実だ。もっとも、これらはすべて素人判断によるものだから、警察がどういう見解を下すのかはわからないが。

 では犯人は? 

 この部屋にいる誰かが彩音を殺害した。そう考えているから、総一朗は「人間観察」と言ったのだ。

 犯人はこの中にいる……背筋を貫く戦慄に創は身震いした。総一朗と自分を除く七名の中に殺人犯が、彩音に毒を飲ませた人物がいるのだ。

(あのメチャクチャな血の痕が本当にダイイング・メッセージだとしたら、犯人のヒントを残そうとしていたのかもしれないな)

 なぜ、その人物に殺されねばならなかったのか。殺害の動機は全員にあると言っても過言ではない。

 昨夜も感じたように、敵を作りやすい彩音の性格から、敵対していたのがはっきりとわかる歌純以外にも、どこでどういう恨みを買っているかわからないし、一応は恋人である圭介だって、浮気な女を懲らしめたいと思っていた可能性はある。

 メンバーの大半が演技をする仕事に就いているのだ、自分が犯人であることを隠して、失った者への悲しみを演ずるなど、雑作もないのではと思われた。

(さっきの嘆き方は不自然というか、妙に芝居がかってたもんな。あの人だって犯人から除外はできないってことだ)

 創があれこれ頭をひねる横で、総一朗は人々の様子をじっと窺っている。

 厳しい視線に冷静な態度、いつもとは違う迫力に話しかけるのもためらわれて、創は教授の横顔を見守るだけだった。

 一時間と経たないうちにパトカーと救急車が到着した。

 呼び鈴を鳴らして現われたのは数名の警察官と刑事、救急隊員らで、伊東署の者だと名乗った刑事は挨拶もそこそこに、現場はどこだと訊いた。

「こちらです、どうぞ」

 薫に案内された人々の足音がどやどやと階下に響き、静かだった別荘は騒然とした雰囲気に包まれた。

 いったいどんな検証が行なわれているのか、知りたいのはやまやまだが、覗きに行くわけにもいかずに悶々としたまま、時間だけが過ぎていく。

 やがて、二階に動きがあった。

 救急隊員たちの手によって彩音の死体が運び出され、それと前後して下りてきた刑事はこう言い放った。

「現状を見る限り病死ではありませんが、自殺か他殺かは判断できかねる状態ですので、他殺の可能性を考えて県警に連絡しました。到着次第、捜査に入ります。皆さん全員からお話を伺うことになるかと思いますが、御協力をお願いいたします」

                                ……❺に続く