MY MEMORANDUM

オリジナル小説を公開するブログです

サファイアの憂鬱 ❸

    Ⅱ

 リビングダイニングは先程とは違う様相を呈していた。

 ソファはカーテンの引かれた窓際へ、内側を向いて一列に並べられている。

 その代わりに食卓が中央へと進出し、卓上には豪華な料理を持った大皿が並び、取り皿やグラスも沢山置かれていた。

 食卓用の椅子も壁際に追いやられている。これから立食パーティー形式でやろうという趣向らしい。

「こりゃあまた豪勢だ。準備するのは大変だったでしょう」

 登志夫がそう言って労うと、薫は「いえ、皆さんが手伝ってくださいましたから」と答えた。

「そりゃ済まなかったな。言ってくれれば私も協力したのに」

「アタシも手伝ったのよ。よくやったって褒めてよ、ねぇ、監督」

 彩音が甘ったれた声でそう言い、そんな様子を見た圭介はぶすっとしたまま、ソファに座っていた。

「それにしても歌純ちゃんは……」

 松崎歌純の到着を気にしてか、カーテンを少し開けて、登志夫は昼間自分たちが辿ってきた道の方向を眺めた。

「あ、あれ、監督」

 良太が指で示した方向にチラチラとライトが見え隠れする。

「歌純さんのバイクじゃないですか」

 闇と嵐で視界が悪い上に、木々に遮られてはっきりとはわからないが、この時刻にこんなところへ向かっている者があるとすれば、そう考えてまず間違いない。これより奥に建物はないし、道がどこかへ抜けるようになっている様子もないのだ。迷っているのでなければ、その正体はほぼ歌純である。

「良かった。無事にたどり着いたようだな」

「もうじき入ってくるでしょう」

 カーテンを元通りにした二人がこちらに戻ると同時に、宣昭がやって来た。

「歌純さんは到着されましたか」

「今、バイクのライトが見えましたから、じきに来ると思います」

「そうですか。では、もう少し待っていましょうか」

 しばらく経って、雨音に混じってマフラー音が聞こえたかと思うと、それが西側駐車場辺りで止まった。続いて玄関の開く音、松崎歌純は「すいません」と声を上げ、薫は慌ててタオルを手にすると、そちらへ向かった。

「……ああ、荷物もヘルメットもそこで結構ですよ。濡れるのは気にしないでください」

 すいませんと何度も謝る声が聞こえてくる。白いライダースーツ姿の歌純は頭のてっぺんからつま先までびしょ濡れで、薫が手渡したタオルで全身をごしごしと拭きながら、リビングに現われた。

「遅くなってごめんなさい。これでもノンストップで、飛ばしてきたんですよ」

 栗色の長いストレートヘアー、切れ長の目、潤んだ瞳に花びらのような唇。濡れネズミになっても、美人女優のオーラが消え失せることはなく、その場に一輪のバラが加わった華やかさだ。

「嵐の中を大変でした。先に着替えてくるといい、何ならシャワーを使ってください」

 お目当ての歌純が登場したとあって、目尻を下げた宣昭は上機嫌である。お言葉に甘えてと、歌純は薫に案内されて二階へと上がって行った。

「それでは、我々は先に始めていましょうかね」

 登志夫が代表して、誕生日を祝う言葉を述べると、宣昭が今日はお集まりくださって云々の礼を返した。

「せっかくですから、乾杯の音頭は総一朗先生にとってもらいましょう」

「えっ、アタシがやるの? まあ、どうしましょう。恐悦至極に存じます」

 おまえは何者だと、突っ込みたくなるのを堪えていると、創の隣に立った教授はビールの入ったグラスを高々と持ち上げて賑やかに言い放った。

「それでは三島先生のお誕生日を祝し、皆様のご健康、映画の成功をお祈りして、僭越ながら乾杯の音頭をとらせていただきます。乾杯!」

 並べられた料理はどれもこれも美味しそうで、どれから手をつけていいのか迷うほどだった。こんな御馳走にありつけるとは、貧乏学生にとっては至福の時である。

 伊豆で獲れた新鮮な魚介類を使ったムニエルにブイアベース、パエリア。中央を飾るのはヒゲを生やした真っ赤なロブスターだ。肉料理ももちろん用意されており、フィレステーキにチキンソテー、色とりどりの野菜があしらわれたサラダ。一流レストランのシェフ並みのいい仕事だと、皆、薫を褒めちぎった。

 宴が始まってすぐに歌純が現われた。ぼさぼさだったロングヘアーはきれいに梳かされ、ライダースーツから紫のワンピースへの変身に、並み居る男たちの視線が集まる。さすがに美しい。

「遅れてきた女王陛下に乾杯」

 自分が捨てた女の、あまりの艶やかさに、惜しいことをしたと思ったのかどうか、昔の恋人はグラスを掲げ、皮肉混じりにそんな言葉をかけた。

「バイクで一人旅なんて危ないなぁ。女王様に騎士はついて来なかったのかい? ほら、あのどんくさい、デカブツのナイトさ」」

 歌純は圭介を一瞥すると、冷ややかな口調で答えた。

「ええ。だって、私だけお供がいたんじゃ、皆さんに申し訳ないもの」

「忠犬を置き去りにするなんて、あとでたっぷり嫌味を言われても知らないぜ」

「誰かさんよりはずっと素直よ。おすわりをしておとなしく待っているから、どうぞご心配なく」

 踵を返した歌純は宣昭のいる方へ向かうと「先生、お誕生日おめでとうございます」と告げ、艶めかしい笑みを浮かべた。

「だけど私、何のプレゼントも用意してないの、ごめんなさい。出発の準備で手一杯だったから……」

「いやぁ、ありがとう。あなたがここにいるだけで、最高のプレゼントですよ」

 お気に入りの女優から誕生日の祝福を受けて、宣昭はすっかり脂下がっている。

 そんな様子を冷めた目で見つめる者もいれば、睨みつける者あり、呆れてそっぽを向く者もあり。一見和やかなパーティーは不穏な空気に飲み込まれつつあった。

 そうとは気づかない宣昭は上機嫌で、年代物の高級ワインのコルクを自らの手で開け、周囲に勧めた。

「これはフランスワインの中でも、滅多に手に入らない品ね。幻のフルボディという呼び名があった」

「さすが総一朗さん、お目が高い」

「それに、何でもよくご存知で博学ですね。大したお方だ」

 何かにつけては、登志夫と宣昭が交互に褒め称える。このオカマがそんなにスゴイやつなのかと訝しく思いながら、創はステーキをぱくつきつつ、辺りを見回した。

 さっき聞かされた交遊図を頭の中で描く。圭介と彩音がデキていることは話を聞く前から察していた。良太と唯もだが、こちらはずっと控えめである。

 しかし、圭介は彩音に惚れ込んでいるが、彩音は圭介を見ている感じがしない。隙あらば他の男にモーションをかけてやろうという気配がありありで、それは宣昭に対しての秋波となって現われていた。

(あれは松崎歌純への牽制だな。あっちの女が三島先生のお気に入りだってわかったから、焦ってるのかもしれないぞ)

 いくら事務所の社長が太鼓判を押したからといって、それで自分がエリナに決定したわけではなく、原作者の意向でどんでん返しになってはたまらない。

 が、それより何より、菊川彩音よりも松崎歌純を支持するヤツがいるというのが許せない、彩音のプライドを傷つけるのだろう。

 ライバル同士の二人、今度は宣昭を巡って激突という展開になると思っていたら、案の定、圭介の傍を離れた彩音はグラスを片手にそちらへと近づいていった。紫のバラに対抗して、ピンクのカトレアが挑戦し、互いにぶつかり合う。華やかな笑い声が闘いの咆哮に聞こえてくる。

(たしかに、女は怖い)

「えーっ、センセイったらぁ、とってもお金持ちでぇ、こんなに素敵なのにぃ、独身でいらっしゃるんですかぁ? なんだかもったいないしー。アタシ、立候補しちゃってもいいですかぁ?」

 彩音独特の、舌足らずなしゃべりが耳につき、これまた苦笑する者、呆れ返る者、不愉快そうにする者など様々。

 リップサービスだとわかっていても嬉しいらしく、宣昭はますます鼻の下を伸ばして「彩音さんのような、若くて可愛い人を貰ったらさぞ嬉しいでしょうが、私の読者には反感を買うし、世の男性からは大批判を浴びるでしょうね」などとぬかした。

(本気にするなよ、バカじゃねえの)

 映画の主演がかかった、それこそ名演技。惜しみない拍手を送ってやりたいと思っていると、

「けっこうしたたか者だし、案外本気かもよ」と、傍らの総一朗が冷めた口調で言った。

 仕事、恋人、世間の、男たちの支持。歌純の持っているものはすべて奪い尽くす、それが彩音のやり方なのだろう。宣昭の名声と財産目当てに、何事かを企んでいるかもしれない。一癖も二癖もある女の悪巧みなど、創のような経験の浅い若僧には計り知れないものだ。

「狙ってるってことか」

「パトロンなら最高じゃないの」

 一方の歌純も負けてはいない、「先生ぐらいのお齢なら、それなりに人生経験を積んだ女性の方がよろしいんじゃなくて?」と反論してみせた。こっちもパトロン狙いなのか、どちらにしても女は計算高い。

「さあさあ、どんなものでしょうか」

 二人の美女に囲まれてデレデレしている宣昭を薫はどんな思いで見ているのだろうかと、そちらに視線を移したが、キッチンとリビングをまめに往復しては黙々と給仕に専念しており、心の内はわからない。

「三島先生、セレブ探偵の創作秘話、なんてのを聞かせてくださいよ」

 良太の言葉をきっかけに、宣昭はミステリに関するうんちくを傾け始めた。

 密室、アリバイ崩し、トリックのアラカルトなどを得意気に語る作家を見やってから、創が総一朗の反応を窺うと、本格物を愛する我らの教授はあからさまにイヤな顔をするわけにもいかず、白けた様子でワイングラスを口元に運んでいた。

「……で、ダイイング・メッセージですが、これは被害者が捜査側、つまり警察や探偵などに向けて残した伝言だというのはご存知ですよね」

 なるべくわかりやすく、がモットーだが、犯人に意図を知られては困るので、被害者がひねったメッセージにしてしまい、それが却って謎を呼んでしまう。ミステリによく使われるパターンだ。

「死の間際に、そんなにあれこれと考えが及ぶものかという不自然さはありますが、これもまた興味深いテーマですね」

「なるほど。ミステリとは奥が深いものですなぁ」

 登志夫のとんちんかんなコメントで講義が締めくくられた。

 宴もたけなわ、というよりはピークも過ぎた頃になって「皆さんに先程約束したものをお見せしましょう」と言い出した宣昭は先に立って、ホールへと出た。

首を傾げながら八人の客があとに続き、遅れて薫もやって来た。

 目の前にあるのは宣昭の書斎のドアで、そこを開けて「さあ、どうぞ中へ」と促す声に導かれるように、人々はその場に足を踏み入れた。書斎は奥行きの広い部屋で、南と西に窓があり、西の窓からは駐車場が見え、南の窓の下には作家の仕事場にふさわしい、大きな机が据えてあった。

 さすがにこの部屋に置かれている骨董品は小さな壷ひとつきりで、あとは二階の客室と同じような油絵の風景画だけ。ごたごたと置くのは邪魔だし、気が散るからだろう。機械嫌いの宣昭らしく、パソコンやワープロの類は置かれていない。原稿はすべて手書きという話だった。

 北側の壁に密接した書架には沢山の書籍がずらりと隙間なく並んでいる。そのほとんどがアンティークに関する美術書や海外の書物などで、父と子、二人分の本が持ち込まれていると考えられる。

 その書架の横に一際目を引くもの、デンと鎮座しているのはヨーロッパの雰囲気や、書斎という場にもそぐわない、大型の金庫であった。

 深緑色の本体はつや消し加工されているのか、鈍く光っている。大きさは高さ一メートル三十センチほど、幅は一メートル、奥行きも一メートルあるだろう。重さは約百キロ。大の男が二人がかりで持ち上げられるかどうかという重量だ。通りすがりの泥棒が一人で持ち出すのは無理だということだけは断言できる。もっとも、別荘に滞在中という、期間限定で使われる金庫を盗み出したとしても、大変なだけで何の得にもならないが。

 さて、金庫の扉を開けた宣昭はロイヤルブルーのビロード生地で作られた箱をうやうやしく取り出した。百科事典ほどの大きさの箱の上蓋を持ち上げると、そこにはダイヤモンド、ルビー、エメラルド、そしてサファイア。眩い光を放つ石がずらりと並んでいたのである。

「私のコレクションの一部です。大半は貸金庫に預けてありますが、この輝きを眺めるのが楽しみでね。手元にも幾つか置きたくて、ここまで持ってきました」

「わあ、すごい」

「何てキレイなの」

 女たちがうっとりとした目で宝石を見つめ、男たちもこれらを換金したら、どれぐらいの金額になるのだろうかと胸算用を始めた。

「ダイヤモンドも、他の貴石たちも愛しているのですが、自分の誕生石であるサファイアには特に思い入れがありましてね」

 みんなの表情を楽しそうに眺めていた宣昭は手元の石を示しながら、今度はサファイアについてのうんちくを語り始めた。

「コランダムという鉱物のうち、赤色のものだけをルビーと呼び、他の色はすべてサファイアと呼ばれます」

「青のみがサファイアではないと?」

「あら監督、知らなかったの? ピンクサファイアとか、イエローやホワイトとか、いろんな色があるのよ」

 歌純にやり込められた登志夫は「さすが、女性だね」と頭を掻いた。

「おっしゃるとおりです。この列の、青ではない色もすべてサファイアです。もちろん、値打ちがあるのは青いサファイアです。私のお気に入りは……」

 そう言いながら、宣昭は指紋がつかないように手袋をはめると、コレクションのひとつを掌に乗せた。

「インドのカシミールで産出された五カラットのサファイア、『蒼い堕天使』です。ここのサファイアはコーンフラワー・ブルーサファイアと呼ばれ、間違いなく世界最高級の品質で、その他の産地のサファイアの何十倍という高値で取引されています」

 コーンフラワーとは矢車草のことである。深海を思わせる青色をたたえたその石は非常に見事なものだった。指輪やネックレスといったデザインはなされていない、カットを施されただけのルースだが、それが却って石そのものの美しさを際立たせている。

 現在流通しているサファイアの多くがエンハンスメントと呼ばれる加熱処理を施して、その青みを鮮やかなものに変えているのに対して、コーンフラワー・ブルーサファイアは何もしなくても目の覚めるような青色をしており、ほとんど産出のなくなった今では稀少価値も上がっているという話だった。

「まさかこの石に出会えるとは思ってもいませんでした。指輪などにデザインして、一流宝飾店で売るなら、二千万円以上の値がつくでしょう」

「二千万……ですか」

「しかしですね」

 驚嘆する人々を前に、宣昭は話を続けた。

「宝石のコレクターというのはかなりマニアックな趣味だと私は思っています。例えば、百万円で買ったダイヤを質屋などに持って行ったとしても、買い取り価格は一万とか、その程度でしょう。石の値段とはあってないようなものです」

 だが、その石に値打ちを見出す人たちにとっては、百万円以上出しても買い取りたいと思うあたり、コンサートのアリーナ席がプラチナチケットになったり、昔の安価なおもちゃが高値で取引されたりするのと同様だと言いたいらしい。

 そこで、と宣昭はある企画を打ち出した。

「今日は私のために、せっかくお集まりいただいたのですから、皆さんに私からのプレゼントを用意させていただきました。今度映画になる作品のタイトルはもうおわかりのように、この石の名前から拝借したわけですが、映画化を記念して、本物の『蒼い堕天使』を差し上げようと思います」

「ええっ、本気ですか?」

「に、二千万の宝石を?」

 目の色を変えたのは女ばかりではない。それまで宣昭の振る舞いを不快そうに眺めていた圭介までもが身を乗り出していた。

「はい。ただし、この石は私にとっても貴重なものなので、手放すわけにはまいりませんし、今も申しましたように、そのまま二千万というお金に換わるわけではありません。皆さんにとっては二千万円を現金で、という方がよろしいかと思います」

 確かにそのとおりだ。自分自身がコレクターでもない限り、二千万円の値打ちがある、というだけの宝石を所持して盗難などの心配事を増やすよりも、同額の金を貰って貯金をした方が絶対にいい。

「ただ、それではあまりにも味気ないので、『蒼い堕天使』のレプリカを用意しました。そのレプリカを手にした方に二千万円を贈りますが、その前に、まずは私がミステリにはつきものの暗号を出題いたします」

 暗号、という言葉に、人々は複雑な表情をした。

「レプリカはひとつしかありませんので、暗号を解いてもらい、一番先に正解した方に獲得権を、と考えた次第です」

 いかにもミステリ作家らしい、遊び心あふれた企画といえば聞こえはいいが、随分とふざけているし、おちょくられているような気もする。忘年会などで行なうビンゴゲームの方が──同列で考えるのも変だが──余程可愛げがあるだろう。

「暗号を解いたらどうなるのですか?」

 良太が質問した。この男もゲン役に選ばれなければ圭介同様、二流、いや、三流芸能人に転落する危険性が高い。二千万円の臨時収入は魅力的だ。

「暗号にはレプリカを隠した場所が示してあります。そして、それは皆さんが到着する前に、私の手によって隠し終えています。ちなみに薫くんも在り処を知りませんから、聞き出そうとしても無駄ですよ」

(要は宝探しかよ)

 鼻白む創、招待客ではない、飛び入りの自分と総一朗に参加資格があるわけもなく、指をくわえて、みんなが浮かれる様を見る羽目になるのは必至である。

「解答を私に報告してもらい、了解を得たあと、本当にそこにあるのか、私の目の前で探してもらいます。勝手に探すのはもちろん不可で、そういう場合はたとえ偶然に見つかったとしても、ペナルティとして獲得権は剥奪されます」

「まずは暗号を解かないとダメってことね」

 珍しく思案顔の彩音の言葉に、その場の全員が頷いた。

 これは二千万という大金を賭けての余興である。果たしてこんな、人をバカにしたような企画に乗るのか否か、金持ち道楽作家の手玉にとられてもかまわないのか、プライドはないのか芸能人たちよ。

 しかし、誰一人として「バカバカしいから参加しません」と言い出さないあたり、金の魅力は相当なものだ。

 ところが、宝石そのものが気に入ってしまったらしい彩音はもしも自分が暗号を解いたら、現金よりもサファイアを譲ってくれと、おねだりを始めた。

「アタシ、その青い石がすっごく気に入っちゃったの。ねえ、センセイ、いいでしょ?」

 そら、いつものワガママが始まったと、みんなが呆れる中、彩音は媚を売り続けた。

 多忙な売れっ子アイドルが稼ぎ出す金額はかなりのものだろうが、実際のところ、どれくらいの収入があるのか、本人の手元に入る金が幾らなのかは見当がつかない。それなりに貰っているから、現物がいい、などと言い出したのかもしれない。

「彩音ちゃん、それは先生にとっても大切な品なんだ。困らせるようなことを言っちゃあダメだよ」

 登志夫が諌めると、彩音は唇を尖らせた。

「えー、だってぇ、欲しいんだもん」

 だだをこねる彩音の姿を歌純が物凄い目つきで睨むのが見えて、創は思わず背筋が寒くなった。

 彩音のやることなすこと、すべてが歌純にとっては気に食わない、むかつく存在。それがありありとわかる。怖い。

「……まあ、そうですね。彩音さんが一番に正解したら考えてもいいでしょう」

 どうせこのアホ女に解けるはずはないと高をくくってか、そう答えて現物支給を承認し、その場を収めた宣昭は全員が企画を了解したと見ると次に、これまた驚くべき提案をしてきた。

「それでは皆さんがお持ちになっている携帯電話と、車のキーをお預かりさせてもらいましょう」

「えっ、それはいったい、どういうことですか?」

 顔色を変えて詰め寄る圭介、だが、宣昭は涼しい顔をして答えた。

「他所の誰かに連絡を取って、暗号のヒントを教えてもらうような真似をされては困りますのでね。車を使って、こっそり抜け出して調べる、というのもナシですよ」

「そんな、ケータイはともかく、車でどこかへ行ったりなんかしませんよ」

「私も電話で相談する人なんていないし、あれがないと困るわ」

 不服を訴え続けたのは圭介と歌純だが、決められたルールに従わないのなら参加資格はないと言われて、しぶしぶ従った。

「もちろん、ここにいる人同士での相談もダメです。あくまでも自分の頭で考えてください。私は十一時までにベッドに入る習慣なので、制限時間は今夜十時。それまでに見つからなければ明日の朝九時から正午まで、としましょうか」

 そのあと宣昭は薫に向かって、みんなの携帯電話と鍵を預かるよう命令した。

「しかし先生、あの……」

 珍しく反論しそうになった薫の態度が気に入らなかったのか、宣昭は忠実な秘書をねめつけると、不愉快そうに言った。

「キミは私の言うとおりに動けばいいのだよ」

「……はい、わかりました」

 やはり将軍様には逆らえないのだ。我儘ぶりを改めて見せつけられると、創の中に何ともいえない不快な感情が湧いた。

 薫の手に六人分の電話と、三本の鍵が──車に限らず、バイクのキーも、と言われた歌純がムッとしたのはもちろんである──集まったあと、それまで沈黙を守っていた総一朗が口を開いた。

「アタシたちはどうすればいいのかしら?」

「そうですね……」

 しばらく考えていた宣昭は「誰かに貸し出されては困るので、総一朗先生と創くんの電話も預からせてください」と言った。

「わかりました。ついでに車の鍵も預けましょう」

 この申し出に驚いた創は教授の脇を肘でつついた。

「お、おい、そんな」

「いいから、黙っていて」

 それから総一朗は人々を前に、とんでもない発言をした。

「アタシと創に権利がないのは承知していますけど、もしも明日の正午までに、誰にも暗号が解けなかったら、アタシたちにお宝探しへの挑戦を許可してくださるかしら?」

 教授の言葉にその場は騒然となったが、宣昭は総一朗の提案を承認した。この取り決めによって、頭のいい総一朗が知り合いの登志夫あたりに助言するのを防げると考えたのだろう。

 宣昭は薫の持つ携帯電話と、二台分の車の鍵も同じ扱いにするよう命じ、合計九個の電話機と六本の鍵が宝石の入った金庫の上の段に納められた。

「この金庫には二つの鍵と、それぞれの暗証番号があります。普段は私と薫くんとで、ひとつずつ所持しているのですが、明日の昼までは次のようにしましょう」

 最初の鍵を宣昭がかけたあと、それを総一朗に渡す。二つ目の鍵は薫がかけ、創が預かる。暗証番号を知っているのはこの家の二人だけだから、四人全員が結託しなければ金庫は開かない仕組みだ。

 宣昭の言うとおりに鍵がかけられると、見守る六人から溜め息が漏れた。

「申し遅れましたが、金庫には皆さんの部屋の合鍵も入っていますから、今持っているキーを失くさないようにお願いしますよ。もっとも、明日の昼まで、リビングで過ごしてくださってもかまいませんが」

 いよいよ問題の暗号文が公開される運びになった。

 宣昭は胸のポケットから取り出した紙を広げて、おごそかに読み上げた。

 

 

   美の傍らの青い石が憂鬱を救う

 

「僕は独り ただ一人 孤独な毎日 寂しい日々」 

 

『貴方はいない ここには居ない』

 

「友もいない 仲間も居ない 悲しい毎日 寂しい時間」

 

「もう泣かない 今は 貴方の傍に 私がいるから」……

 

 

「何ですか、これは?」

 暗号と聞いて、スパイ映画にでも出てくるようなものを想像していた人々は当てが外れてか、呆れ返った表情で宣昭を見た。

「わかりにくいようでしたら、ここに原本がありますので、書き写してくださって結構ですよ」

 平然として、宣昭はさっきの紙をひらひらとさせてみせた。

 ぶつぶつと何事かをつぶやきながら、圭介がメモ用紙に暗号を写し始める。次々と回覧された紙は最後に、総一朗の手に委ねられた。

「創、代わりに書いておいて」

「ちぇっ、面倒臭い作業はすぐにこっちへ回すんだから」

 ボールペンを手に、一字一句をメモに書き写しながら、創もまた不満たらたらである。

(憂鬱を救う、なんてワケわかんないし、意味不明で超ダサすぎ。売れない演歌の歌詞の方がまだマシじゃねえか)

 とにかくセンスが感じられない。ミステリ作家の作る暗号がこの程度のものとは、読まずしてセレブ探偵の内容のレベルがわかるというものだ。

 原本が手元に戻ると「とりあえずパーティーの方はお開きにしますが、食事やお酒を召し上がるようでしたら続けてください。それでは、皆さんの健闘をお祈りしますよ」と言い放った宣昭はリビングへ戻るよう、客人たちを促した。

 これからまた仕事をするが、暗号が解けたら遠慮なくドアをノックしてくれという言葉を背にリビングに戻ったものの、既に満腹で今さら何かを食べる気にはならない。皆めいめいにソファや椅子に腰掛けては、暗号を書いた紙とにらめっこ開始だ。

 全員の了承を得た薫が卓上を片付け始めると、手伝いましょうと総一朗が言い、創もそれに従った。

 引き戸を開放し、食べ残しの皿やわずかにビールが残ったグラスなどをキッチンに運び入れる。ここに入るのは初めてだ、創は何気なく中を見回した。

 北東の角に裏口の扉が見える。北側はすべてシンクとなっており、東の壁際には食材用の大型冷蔵庫に、そう頻繁には買出しに行かないつもりからか、冷凍庫まである。

 ホールに出る西のドアの横には食器棚と、普通の家より設備がいいという程度の台所なのだが、このスペースにもアンティークの波が押し寄せている。食器を並べるべき場所に骨董品がふんぞり返り、壁には例によって絵画がずらり。ここに飾っても鑑賞する人は皆無だと思うし、調理の油汚れがついたら台無しだが、そこらはどうでもいいらしい。

「一階にトイレや風呂はないんですか?」

 言ってから、つまらないことを訊いてしまったと後悔した創だが、薫は真面目に答えてくれた。

「先生の寝室と私の部屋に、皆さんがお使いになる客室と同じユニットバスがありますが、共同で使うものは設けておりません」

 建物全体で十ものトイレや風呂がある勘定になる。プチホテル時代には共同浴場もトイレもあったのかもしれないが、これ以上設置しても無駄だと考えたのだろう。

「この子ったら、つまんない質問をしてごめんなさいね」

 自主的に反省したことを改めて指摘されると腹が立つ。

「あのなあ、保護者ヅラするなよ」

「あら、恋人って言って欲しいわ」

「笑えないからやめろって。シャレにもなりゃしない」

 師弟のやり取りを聞いて、薫は優しく微笑んだ。

「お二人はとても仲がいいんですね。羨ましいぐらいです」

「こっ、こんなオヤジと仲がいいだなんて、冗談じゃないっスよ」

 またもやいらぬ誤解を招いてしまったではないかと、慌てて打ち消す創に、

「そこまでイヤがることないじゃない」

 むくれた様子を見せたあと、

「じゃあ、アタシからも薫さんに質問をひとつふたつ」

 そう言って、総一朗は食器棚を指した。

「いくら秘蔵の骨董品でも、飾る値打ちのないものはあそこの、食器のポジションに追いやられているんでしょ。倉庫でも作ればよかったのに」

 薫は苦笑しながら「外に物置がありますが、せっかく買い集めた品をそんな場所に押し込めてはならんと社長がおっしゃるので、ここが納戸扱いなんですよ」と答えた。

 裏口を出てすぐのところにある物置には庭を手入れするための道具が入っているくらいで、がら空きであるとも付け加えた。

「社長というのは三島先生のお父さんね。面識があるの?」

「亡くなった母が社長の会社で事務をしておりましたので。私がこちらでお世話になっているのも、社長の紹介があったからです」

 つまらない質問をしているのはどっちだと創は不服に思ったが、そんな態度にはおかまいなく、総一朗はさらに続けた。

「ねえ薫さん、さっき先生の書斎で、携帯電話と鍵を集めてくれ、って指示があったときなんだけど、何を言いかけたの?」

 それを聞いたとたんに薫は顔を曇らせたが、すぐに元の表情に戻った。

「いえ、皆様にご不便をおかけするのではと心配になりまして」

「そう。まあ、ケータイなしじゃ生きられない、サイトにアクセスし続けないと死んでしまうとか、メール中毒で親指が疼くっていう人でもなければ、半日ぐらい使えなくても大丈夫よ。気にしなくていいわ」

「はい、ありがとうございます」

 薫をキッチンに残し、片付けを終えてもまだ、メモ用紙とのにらめっこは続いていた。みんな難しい顔をしているあたり、現時点で暗号が解けた者はいないようだ。

「一人と独り、いないと居ない。この漢字の使い方に関係があるのかな?」

「かぎカッコがひとつだけ違うってのがヒントかもよ」

 相談してはいけないと言い渡されていたにもかかわらず、ついつい自分の考えを口に出してしまう人々を目にして、創は総一朗と顔を見合わせ、ほくそ笑んだ。

 ソファに圭介、彩音、登志夫が座り、食卓の方には良太と唯が並んでいるが、歌純の姿が見えない。

「頭痛くなってきた、もう寝ようっと」

「十時まで一時間近くあるじゃないか、根性なしだな」

 立ち上がって欠伸をした彩音を咎める圭介、それを聞いた良太は「彩音ちゃんはこういう問題は苦手だって、圭介さんが一番よく知ってるじゃないですか」と反論した。

「それは俺に対する嫌味か?」

「そんなつもりじゃ……」

「本当は一番良く知っているのは自分だ、とでも言いたいのかな、偽善者くん」

 さすがの良太もムッとしたようで、無言で圭介をねめつける。

「おまえの狙いぐらい、とっくに承知してるんだよ」

 彩音さえその気になれば、いつでも唯から乗り換えるつもりでいる、それが良太の本心だとでも言いたいらしい。

「まったく、唯ちゃんはいい面の皮なのに、よく平気でいられるな」

 いきなり話を振られた唯は「ワタシはそんな、別に……」と、例によっておどおどしながら答えた。

「あー、いい子ぶってるぅ。こういう子が裏で何やってるかわかんないのよね」

 いきなり暴言を吐く彩音に、唯は憤然としてそちらを見た。何であろうと、この女にだけは批判されたくないと思う気持ちはよくわかる。

「人に知られて困るようなことなんて、やっていません!」

「あっ、そう」

 先輩後輩は関係ない、遠慮なく喧嘩を売って敵を増やすタイプである。

 既に眼中にないという、その態度は歌純や唯といった芸能界の住人に限らず、世間一般において、数多くの敵を自ら作り出しているに違いない。

 こんな女に限って、男にはウケがいいから始末が悪い。どんなにキレイでスタイルがよくても、こういうタチの悪い女はゴメンだと創は思った。

「おい、もっと真面目にやれよ。二千万円がかかっているんだ、そう簡単にあきらめてたまるかよ」

「ふーん、せいぜい頑張ってね」

 苛立った様子の圭介に手を振ったあと、彩音はとんでもないことを言った。

「先生にヒント訊いてこようかな」

「何だって?」

「アタシにだけこっそり教えてくれるかも、うふふ」

「ちょっ、ちょっと待てよ!」

 そんな反則行為が許されるはずはない。引き止めようと慌てて立ち上がり、ホールに出た圭介たち、さっきからのいざこざを面白半分に眺めていた創はこの先の成り行きも見てみようと、総一朗と共に、あとに続いた。

 ホールではみんなの目の前でなんと、彩音と歌純がつかみ合いの喧嘩をしていた。どうやら書斎の前で鉢合わせしたらしい。どちらも自分にだけはヒントをくれるのではと期待して宣昭の元を訪れたのだが、タイミングがいいのか悪いのか、とうとうライバル激突となったわけだ。

「この女狐、抜け駆けしようったって、そうはいかないから!」

「何よ、色ボケ女! 何人も男をたぶらかしておいて、今度は三島先生に色目を使う気でしょうけど、世の中そんなに甘くはないって思い知らせてやるわ!」

「フン、とっくにトウが立ってるくせに、清純派気取りなんてバッカじゃないの。自分のポジをわきまえるべきよ」

「なんですってぇ、よくも言ったわね! あんたみたいなすれっからしで下品な女に最高級の宝石が似合うはずないじゃない、あのサファイアは私のものよ!」

「ふざけるのも大概にしてよね、オバサン。あれはアタシが貰うんだから、横取りしないでちょうだい」

 彩音のおねだり発言を聞いて以来、歌純も現金よりサファイアそのものに執着してしまったらしい。二人の醜い言い争いは次第にエスカレートし、クソババアだの尻軽だのといった、聞くに堪えない言葉が飛び交った。

「ちょっと、二人とも何やってるんだ、こら、やめなさい!」

 歌純の身体を登志夫が、彩音を圭介が取り押さえるが、女同士の激しい罵り合いはなおも続いた。

「どうしたんですか?」

 騒ぎに気づいて顔を覗かせた宣昭に圭介が食ってかかった。

「先生、まさか俺たちに内緒で、この二人にヒントをやるって約束したんじゃないでしょうね?」

 とんでもないと宣昭は否定した。

「私がルール違反をしたら、今回の企画は成り立ちませんよ」

「その言葉に嘘はないですね」

 宣昭が詰問を受け、追及されている間に、ふて腐れた歌純はさっさと階段を上がり、割り当てられた客室へ引っ込んでしまった。

 同時に、引き戸を開け閉めする激しい音が響いて、その場に立ちすくんでいた創たちはギクリとした。

 腹立ち紛れに、引き戸を乱暴に扱ったのは彩音、歌純と一緒に階段を上がるのはイヤだと、いったんリビングに戻ったらしく、しばらくしたのちに足音をバタバタとさせて、これまた自分の部屋に入って行った。

 見ようによっては滑稽な寸劇も終了し、残された人々の間にしらけた空気が漂う。暗号解読の続きは明日にしようと、その場はお開きになった。

    ◆    ◆    ◆

「……まったく、どいつもこいつも欲が深いっていうか」

「アイドルも女優も一皮剥けば色と欲の塊なのよ。いい勉強になったわね」

「あ、ここは禁煙スペースだから、自分の部屋で吸ってくれよ」

「いいじゃない、一本くらい」

 部屋に入り込んできた総一朗がポケットからシガレットケースを取り出すのを嗜めたあと、創はリビングから拝借してきたグラスをテーブルの上に二つ並べ、これまた冷蔵庫から持ち出したコーラをなみなみと注いだ。このまま寝る気にはならず、二人でささやかな二次会というわけだ。

 禁煙を無視する総一朗に「だから、オレの部屋で吸うなって」と文句をつけた創は文句ついでに、明日はどうするつもりだと詰め寄った。

「どうするって、何を?」

「宝探しだよ。ヘタすりゃ昼までかかるんだろ、ゼミ旅行に間に合わないじゃないか。ケータイも取り上げられちまったし、先輩たちには連絡の取りようがない。オレたちが来ないって、みんな心配……」

「大丈夫よ。アタシたちが行かなくても旅行は続けるようにって、あらかじめ言ってあるから」

「なっ、何だよ、それ!」

 憤慨する創に艶然と微笑むと、総一朗は「アタシには単位という強い味方、最強の武器があるのよ」と言ってのけた。

「講義に実験でしょ、文献に卒論……」

「あー、もういいよ。それでみんなを脅迫したんだな」

「ピンポーン。そもそもよ、監督たちを手助けしてやろう、って言い出したのはあなたの方ですからね。ここに泊まる羽目になったのもそのせいだし」

「わかったよ。もう言わないから勘弁してくれよ」

 すっかりあきらめの境地の創はコーラを飲み干すと、空のグラスに今度はオレンジジュースを注いだ。

「甘いものばかり飲むと糖尿になるわよ」

「そっちが肺ガンになるのと、どっちが先か競争するか」

「ご冗談を」

「ところであの暗号、みんな苦戦していたけど、わかりそうなのか?」

「さあね。あとで取り組んでみるから、メモを貸して」

 果たして二千万円つきのレプリカは誰の手に渡るのだろうか。

 それが自分たちの手元に、というのはちょっと想像がつかないが、二千万を総一朗と山分けしたとして、一千万あればバイトをしなくてもいいし、パチンコでスッても麻雀で負けても、落ち込まずに済む。

 大学生活もあと二年、いや、正確には一年半。両親に仕送りしてもらわなくても充分生活していける。これは親孝行だ。

(あー、オレって夢がないなぁ)

 ふいに、近頃言動が分別臭くなったと、同じクラスの、仲のいい連中にからかわれたのを思い出す。

 

『加瀬、三年になってからのおまえって、妙にオヤジっぽくねえ?』

『オレたちの学年じゃ、ナンバーワンのイケメンだって評判だったのに、近頃は何だかサエねーよなぁ』

『やっぱさ、研究室のせいだろ。あの教授に気に入られちまったんだって?』

『気に入られたっていうより、とり憑かれたって感じだな』

『若さを吸い取られてるんだぜ、きっと』

『イケメンも楽じゃねえなぁ』

 

(とり憑かれてる、若さを吸い取られてるか。有り得るかも……)

 横目でちらりと総一朗を見る。

 こいつと関わるようになってから、オヤジ指数が上昇した傾向は多分にあるだろうが、それを嫌だ、不愉快だとは思わないのが不思議な気もする。

 しかし、こうなったら二十一歳の若者らしい、もっと大きな夢を……と考えて、やっぱりやめた。

 今日一日のめまぐるしい展開は齢若い創の身にですらも酷なものだった。晩餐で口にした酒類も効いているし、疲れて何も考える気にならない。

「何ボケッとしてるのよ」

「いや、別に。二千万円ゲットできたらいいなあって思っただけ」

 フッと微笑んだ総一朗は特にコメントするでもなくタバコをふかし、コーラを飲んだが、二十代の自分よりもずっと多量のアルコールを摂取していたのに、ケロッとしているのが憎らしい。

「アタシもサファイアの現物が欲しいわ、なーんて言われたら、オレにはおこぼれがないけど」

「まさか。作家のセンセイが言ってたように、まずはルースをプラチナ台にでも乗っけて、どうしても欲しいと思ってる人に売りつけてやっと二千万になるのよ。所詮は素人、そのままじゃ、やり手の宝石屋に買い叩かれるのがオチ。現金収入の方がいいと思うのが普通でしょう」

「売るまでに費用がかかったらつまんないし、家には置いておけないし。貸金庫なんて、維持費もバカにならないもんなあ」

「そういうこと。それに、たしかにあれは素晴らしい石だったけど、要は酸化アルミニウムで組成されたアルミナが結晶したコランダムという鉱物なわけだし」

 鉱物は専門外だが、切れ者の大学の教授だけあって、総一朗は宣昭の解説を聞くまでもなく、サファイアという石についての詳細な知識を持っていた。

「結晶系は六方晶系、へき開はなく、底面及び菱面体方向に裂開。硬度は9で比重は3.99から4.05……」

「わかったから、もういいって。講義中みたいで頭が痛くなる」

「慣れてないからよ。後期はちゃんと出席しなさい」

 これだから理系の人間は情緒がないと言われるのだ、って、誰に言われたのか忘れてしまったが。

「なあ、三島のおっさん、本当にヒントをやるつもりだったのかな」

「可能性はなきにしもあらずだけど、歌純の方はともかく、彩音にわかるはずないじゃない。ルール違反はすぐにバレるわ」

「そりゃそうだ」

 センセイ、やっぱりわかりませーん、と泣きつく姿が目に浮かぶ。

「そうだ、預かった金庫の鍵はどうした? オレは財布に入れてあるけど」

 創がジーンズのポケットから財布を取り出して、中を確認してみせると、総一朗は「ここよ」と言いながら、胸ポケットを叩いた。そこにはシガレットケースが入っている、「ケース出すときに落としたら大変だぞ」という、こちらの忠告を無視して、二本目のタバコに火がつけられた。

 やがて腕時計に目をやった総一朗は大きく伸びをすると「もうすぐ十二時ね。アタシにとっては序の口だけど、そっちはお疲れのようだから引き揚げるわ」と言い、あっさりと自室に引き下がった。

 肩透かしを食らい、あーあと息をつく。

 隣室の登志夫はもう眠ってしまったのか、物音ひとつしないが、この建物の壁は思ったより厚く、シャワーやトイレの音が隣に響くという心配はそれほどなさそうだ。創は安心してシャワーを浴びると、さっさとベッドに潜り込んだ。

 そして、悲劇は起きた。

                                ……❹へ続く