シーンⅡ シグナル
ビルの裏側にある駐車場まで来ると、尊は自分の車に乗るよう、隼人に言った。
まっ黒な車体、スポーツタイプのクーペは黒ずくめの美男子にこれ以上ぴったりな車はないという車種である。彼をCMに起用したらどうだと、自動車メーカーに推薦したいほどだ。
隼人がおずおずと助手席に乗り込むと、車は軽やかに発進した。エンジン音はさほど大きくない、このテの車にしては静かで落ち着いた乗り心地だ。
尊がカーステレオを操作すると左右のスピーカーからジャズが流れてきたが、こんなキザッぽい演出もイヤミにならないのはさすがで、何といっても美形は得だと思う。
黙って運転を続けている相手に話しかけることもできず、隼人はしかたなく景色をながめていたが、車が繁華街を抜け、郊外の住宅地にさしかかったところで、思いきって口を開いた。
「あの……交通安全のアレ、って何ですか」
尊はフロントガラスを見つめたまま、表情ひとつ変えずに答えた。
「保育園や幼稚園の園児を対象に行なう交通安全教室だ。協会からの委託を受けて、園ごとに実施している」
「交通安全教室?」
そうと聞いて、隼人はホッとしたような、肩透かしを食らったような気分になった。
紙芝居などで交通安全を叫ぶよりも、テレビで人気のヒーローに似たかっこうのお兄さんたちに説明してもらった方が子どもたちも喜んで聞くから、ということで依頼されているのだろう。
(だからイベント補助なのか、なあんだ。ヒーロー派遣って、その程度の内容かぁ)
両親にせがんで連れて行ってもらったヒーローショーが、レッドフェニックスたちが遊園地の特設会場で悪者を相手に戦う、おなじみの場面が思い浮かんだ。
いや、あそこまで凝った内容ではなく、もっと簡単なはずだ。そうでなければ素人アルバイトの高校生に務まるとは思えない。
「それで保育園に……具体的にはどんなことをやるんですか?」
「車を怪物に見立てて、飛び出しをしない、信号を守るといった交通ルールを教える。もっとも初歩的な業務だ」
「海城さんもやったことは?」
「ある」
この無愛想な男が小さな子どもたちを相手に、どうやって交通ルールを教えたのだろうか、想像がつかない。
それでも、予想していたより簡単そうな仕事だと安心した隼人はとたんに、おしゃべりになった。
「いつからバイトしてるんですか」
「高一、だったかな」
「他にはどういった内容の仕事があるんですか」
「種類がありすぎて一言では説明できないが、難易度のランキングがあって、初心者はDクラスかCクラス程度から始めるのが通例だ」
「交通安全教室は?」
「Cには及ばない、Dクラスだな」
尊はにべもなく答えるとウィンカーを操作し、車体は左へと曲がった。
「その仕事のランキングって、エナジー指数の値によってどれができるとか、できないとか決まるわけですね」
「そうだな。おおよその目安はあるが、最終的には本人の希望を優先する。指数が高いからといって大変な仕事ばかりをやらされるわけではないから安心していい。逆に、指数の低いヤツが難しい仕事をやりたいというのは内容によって却下されるが」
「なるほど」
納得していると、尊は横目でチラリとこちらを見やった。
「見たところ、どこにでもいそうなガキなのに、おかしなものだ」
それは見かけによらず隼人の指数が高かったことへの疑問なのか。
これまで最高値だった自分の記録が抜かれたために、この新入りの存在が気に入らないのかもしれない。
そんなの知ったこっちゃない。思わずムッとした隼人は早口でまくしたてた。
「わっ、悪かったですね。どうせオレはどこにでもいそうなガキですよ。身長も体重も普通、成績は中の下だし、スポーツテストは良くてもB評価だし、部活は文化系の郷土研究部だし」
しゃべりながら、オレはこの程度の人物かと思うと情けなくなってきた。
「だいたい、エナジー指数がどうのこうのなんて、今日初めて聞かされたのに、高さの理由がオレにわかるはずないじゃないですか。それに、見た目は関係ないって、さっき社長さんが……」
「すまない、失礼した」
尊があっさりと謝ったため、隼人は拍子抜けしてしまった。
「い、いえ、そんな」
「指数を決める要因が何かわかるか?」
「えっ? さ、さあ……社長さんは年齢や性別では判断できないって説明してましたけど、海城さんは知ってるんですか」
「運動神経の優劣はそれほど影響しないが、ベルトを装着する時間が長いほど、装着者のエネルギーを消耗するという点では、体力のある若い男の方がいいらしい」
「なるほど。それで四十歳までの人で『若い力求む』なんだ」
中高年が変身するのはキツい。普通に考えれば当然だ。
高血圧や糖尿病、脂肪肝といった持病があれば、なおさら無理だろう。間違いなくドクターストップがかかる。
「体力が必要なのはともかくとして、指数の高低に関しては当人の性格や信条、物事に対する考え方といった、メンタルな面の影響が大きいとされている」
「精神的な面か。よくわかんないけど、何が決め手になったんだろう」
気の弱い性格から、立花や真奈に押し切られてバイトを始めるはめになったほどだ。精神的に強いとか、そういう取り柄があるとは思えない。
首をひねりながら、隼人はブツブツとひとり言を口にしていた。
「オレってどっちかって言えば内気だし、電車の中で席を譲るのも勇気がいって……」
「席を譲ってどうしたんだ?」
(え、聞いてたんだ)
隼人は高校まで電車で通学していることと、車内でどう見ても老婆と思える人に進んで席を譲ったら「私は老人じゃない」ときつく断られた事件がトラウマになり、それ以来、座席に座れなくなったのだと語った。
席に座っていれば誰かに譲る場面にも遭遇するが、最初から座らなければ、その心配もなくなるからだ。
「座席に座ってる若い人の前におじいさんが立っていて、オレならすぐに譲るのにと思いながらも、どうすることもできないシーンは何度もありました」
朝夕の通勤通学のラッシュ時刻の風景がよみがえってくる。誰だって疲れているし、座りたいと思うところだ。
「さっさとトラウマを克服すればいいんでしょうけど、また叱られたらイヤだし、なかなか……気が弱いんですよ、それなのにどうして指数が高いんだろ。もっと強い精神の持ち主じゃないと、って思うのに」
それに……と言いかけて、彼は口をつぐんだ。今朝、事務所に着く前に見かけた、気弱そうな男性が取り囲まれていたシーンを思い出したのだ。
正義もへったくれもない、何もできずに見て見ぬふりをし、力さえあればと無力感に囚われた。
そのもどかしい感情は飲む水の量が少なかったために、食道の奥にはりついてしまったカプセル薬のように居座っている。
(こんなこと、今日初めて会った海城さんに話すなんて、みっともなくて、とてもできないや)
「どうかしたのか?」
「いえ、べつに」
特にコメントもせず、尊は車を道の左側に寄せた。
「着いたぞ」
到着した先は門に『ふたば保育園』という看板を掲げた、壁をミントグリーンに塗った二階建ての建物で、周囲はアルミ製のフェンスに取り囲まれていた。
園庭では交通安全教室のイベント真っ最中で、園児たちのにぎやかな声がここまで聞こえてくる。
そこには道路に見立てた白線が引かれ、横断歩道や信号機までがセッティングされている。信号機は順番に色が変わる、かなり本格的なものであり、今はその横断歩道を園児が渡ろうとしている場面だった。
「午前中はここでのイベントということになっている。とりあえずどんな様子なのか、見学してみるといい」
「あ、はい」
車を降りた二人は物陰から成り行きを見守ることにした。
「あっ、コワーイ怪獣がやってきました、みんな、気をつけて!」
ガオーッという効果音が聞こえる。
「横断歩道を渡らなかった悪い子は誰だ?」
「おまえだな、よし食べちゃうぞ」
「……きゃあ、危ない!」
ヒステリックな声で叫んでいるのは若い女の保育士で、信号を守らなかった園児の一人が車の形をしたモンスターに襲われるというシーンがくり広げられているが、子どもたちは恐ろしがるよりもキャアキャアと喜び、はしゃぎまくっていた。
(あんなんで交通ルールを守る気になるとは思えないけど……この頃のガキはスレてるからなぁ)
モンスターが園児を連れ去ろうとした時、
「待てっ!」
かけ声と共に現われた三人組を見て、隼人はギョッとした。
さっき鏡で見た、自分と同じスーツ姿だ。いや、色が違う。黄、青、そしてオレンジ。
(そうか、高校生バイトの三番と四番と八番があいつらだな)
青は自分と似たような体型だが、オレンジはメタボで、黄色は女だ。
個人によってエナジーカラーが違うというから、隼人自身は赤、彼らも各自の色を持っているのだ。
(だったら、この人は……)
隼人は隣の尊を見上げた。
(黒、しかないよなぁ)
当の尊はあいかわらず無表情で、黙ったまま三人の活躍ぶりをながめている。
「その手を離しなさい!」
モンスターをいさめたのは黄色、
「何だ、おまえらは」
敵役のモンスターたちが三人に向かって吠えると、
「オレたちは正義のヒーロー、交通戦隊シグナルレンジャーだっ!」
(シグナルレンジャー?)
青いスーツの男がポーズをとって決めゼリフを吐いたが、あまりのダサさに隼人はめまいをおぼえてしまった。
せっかく派遣されたのはいいけれど、特撮の世界のようにはいかないのが現状で、これはまるでご当地ヒーローのノリだ。
町興しの一環として、全国各地で作られたご当地ヒーロー。彼らは地域のイベントにかり出され、その物語がローカル番組として制作、放映されていたりもする。
そういえば、交通安全教室に協力していたご当地ヒーローのニュースを観たおぼえがあるから、どこでも似たようなイベントをやっているのだ。
それでも子どもたちは大歓迎……と思いきや、一部からブーイングされている。オレンジ色では信号にならないという理由らしい。
「何言うとんねん。わては赤や、シグナルレッドやで」
メタボのオレンジが関西弁でまくし立てているのを見て苦笑した隼人はそれから、赤・イコール・シグナルレッドに値するのは自分だと気づいて、ガク然とした。
(次はあの役をオレにやれってこと?)
まさか何の練習もなしに、それはないだろうと思いつつも不安がよぎる。
シグナル三人組は派手な立ち回りでモンスターたちを蹴散らしたあと、改めて交通ルールのポイントを順番に説明し始めた。
「……だから、信号が青に変わっても、すぐに渡ろうとするなよ」
「右を見て、左を見て、車が止まってくれたのを確認してから渡りましょうね」
「ボールなんかを追っかけての飛び出しは絶対にやったらあかんで」
そんな指導がしばらく続いたあと、園児や職員たちの拍手に送られて、三人は建物の裏手に消えた。
観客たちが園舎の中へと引っ込むと同時に、数人の男たちが現れて、信号機などの撤去に取りかかった。
「あの人たちは?」
隼人が尊に尋ねると、
「機材の準備やモンスター役などを引き受けているM&Gプロダクツのメンバーだ」
「あの人たちがM&G……」
隼人はてきぱきと片づけを進める人々の様子をもう一度ながめた。
彼らはモンスターの着ぐるみを脱いで、大道具係に転じるのだった。
「皆さん、大学生のバイトですか?」
「そうだな。あそこで指示を出している、メガネをかけた背の高い男が三崎といって、M&Gの正社員だ。たいていの場合、あいつがイベントを取り仕切っている」
交通安全教室はいつもこの要領で行なわれているらしい。
三崎をリーダーとしたM&Gプロダクツのメンバーが会場をセッティングしたところへ、PHカンパニー側からシグナルレンジャーが派遣されるという形になるのだ。
「あの連中のことだが、エナジー指数が足らなくてM&Gに回されたというヤツが多いから、俺たちにコンプレックスを持っている。ヒーローになり損ねたひがみからイヤミを言ったり、いやがらせをしたりするかもしれないが、まともに取り合わないよう、冷静に対応するんだな」
「そんな……面倒っちいなぁ」
誰だってモンスターすなわち敵役より、正義の味方を演じたいという気持ちはわかるが、それを聞かされて、隼人はうんざりとした。
ところで、舞台裏ならぬ建物の裏に引っ込んだ三人はどうしたのだろうか。
気になってそちらを見ていると、
「あいつらは次の場所へ移動した。俺たちも行くぞ」
「片づけとか、手伝わなくてもいいんですか? 保育園の人にあいさつも……」
「それは三崎たちの役目だ。俺たちは一般人に素顔を見せてはいけないという決まりになっている」
DやCクラスではさほど支障はないが、上級クラスの仕事になってくると、正体がバレるのはまずい、大きな問題になるのだと尊は説明した。
そのとたん、自分がとてつもなく危ない世界に足を踏み入れてしまったのではという不安が隼人の中で渦巻いた。
(やっぱり悪の秘密結社が相手? 本物のヒーローみたいに悪者の組織と戦うって感じの、生命の危険にさらされる仕事をやらされるんじゃないよな? 断ってもいいって話だけど、オレって気弱だから、すぐに引き受けちゃいそう……)
不安げにたたずむ隼人をジロリと見た尊がせっついた。
「早くしろ」
「あ、す、すいません」
あわてて車に乗り込む隼人、黒い車体は再び移動を始めた。
◇ ◇ ◇
「少し早いが昼食にしよう。午後一時より開始だから、十二時半には到着しておかないと困るからな」
尊が車を停めたのは丸みをおびた壁も屋根も銀色の、奇妙な建物の駐車場だった。何やら英文字が描かれた、申しわけ程度の看板が駐車場の隅の方にちょこんと置いてある。
一見、小型の東京ドームのようなこの建造物、よくよく見ると、すべてがアルミか何かの金属でできている。
「何の店なんですか?」
「福利厚生施設のひとつで……」
そういえばネットの掲示板にそんな言葉が載っていたっけ。
「表向きは喫茶店、PHカンパニーで経営している店だ。ここなら領収書をもらうだの何だの、わずらわしい処理をしなくてもいいところが楽だからな」
「表向きって?」
隼人のつぶやきには答えず、尊はさっさと扉を開けて中へ入り、慣れた仕草で新聞を手に取ると、奥のテーブルへ勝手に着席した。
尊自身は何度も出入りしているらしく、隼人もそちらへ行こうとして、あわてて近くのテーブルに足をぶつけてしまった。
「イテテ」
このけったいな店には窓というものがほとんどない。二人が着いたテーブルの周りも怪しげな絵画がひとつ飾られているだけで、味けない雰囲気である。
店のマスターとおぼしき人物が氷水の入ったグラスとメニューを持ってきたが、この男も店内同様に愛想がなく、ムスッとした顔でそこに立っている。
それにしても、隼人たち二人以外に客はおらず、昼食時にこの入りでは経営が成り立つのかと心配になるほどだ。
尊がメニューを見ようともせずにカレーライスを頼んだので、隼人も同じものを注文してからキョロキョロしていると「少し落ち着いたらどうだ」と注意された。
「え、ええ、でも……」
こんな不気味な店で気分が休まるはずないじゃないか。
そう反論したいのはやまやまだが、口には出せず、氷をガラガラいわせて水を飲む。
尊は英字新聞を広げて紙面の記事に目を通している。
帽子を取った姿を見るのは初めてだったが、すっかりくつろいでいる様子で、それが彼らしくない、不思議な感じがした。
しばらくしてマスターがカレーを盛った皿を運んできたので、新聞を折りたたんだ尊はさっさとそれを食べ始めた。
あまりにも美形なこの男はまるでマネキンか何かのようで血が通っている気がしない、およそ人間味に欠けた印象だったが、そんな彼が見せた、食事をするという『生物的行為』に、隼人はようやく親しみをおぼえるようになってきた。
「どうした、食べないのか」
「は、はい、いただきます」
カレーはなかなかに美味だった。
ルーはレトルトや業務用ではない、多種類のスパイスをふんだんに使っているし、ライスはサフランで染めた本格派の味だ。
一日にどれほどの客が来るのかわからないのに、こんなに凝ったものを出していたら、赤字は確実だろう。
スプーンを動かしながら、隼人はまたそろそろと探りを入れた。
「今からさっきの三人に会うんですよね。いつもチームを組んでやるんですか」
「それは内容によっていろいろだ。俺の場合は単独行動が多いがな」
「さっき、追加の仕事って、社長さんがおっしゃってたけど?」
「昨夜からの仕事が一段落して、報告書を書きに来たところを捕まった」
もしや徹夜明けではなかったのか。
それなのに、自分の初仕事につき合わされてしまった尊に、申しわけなさを感じた隼人は思わず頭を下げた。
「すいません」
「謝る必要はない」
「はあ」
うち解けてきたところで、隼人は先ほどの疑問をもう一度口にした。
「この店、表向きは喫茶店って言いましたよね。それじゃあ、裏は何ですか?」
「知りたいか?」
おどすような口調に、思わず引くと、
「秘密基地だ」
「……えっ?」
「さて、そろそろ行くぞ」
「ちょっ、ちょっと待って! まだカレーがぁーっ」
カレーライスは皿に半分近く残っている。急いでかき込み、とっとと立ち上がった人のあとを追う。
(まったくもう、強引なんだから! 後輩の面倒はちゃんと見てくれよって)
◇ ◇ ◇
次に二人が向かったのは『ひまわり保育園』、午後はこの場所にて、さっきのふたば保育園と同じイベントをやるのだ。
駐車場に車を入れると、先に到着した三崎たちが準備をしている姿が見えた。
尊はといえば、携帯電話を取り出してどこかに電話をかけ始めたが、よく見ると、表面のライトだけではなく、電話機全体が黒っぽく光っているのに気づいた。
(あんな機種、あったっけ?)
自分の知らない、新発売されたものかもしれない、などと考えていると、尊がこちらを見た。
「ヤツらに連絡がついた。行こう」
車を降りて向かったのは保育園の建物から少し歩いたところにある公園だが、土曜の昼間にしては小学生らの姿もなく、閑散としている。
そんな公園にて、手持ちぶさたに立っている男女が目についた。シグナル三人組と見てまちがいない。
三人は隼人たちに気づくと、サッと緊張した面持ちになったが、それは初対面の自分がいるからではなく、黒い服の男のせいだとすぐにわかった。
彼らは尊に対して、どうやら畏怖の念を抱いているらしいが、当人のキャラクターを考えれば納得のいく反応である。
「かっ、海城さん、こんにちは」
「ごぶさたしてます」
それらの言葉を口にしながら、三人は尊、次に隼人の面に視線を走らせたが、その中の女が「あっ」という叫びを上げた。
「二組の十文字隼人くんでしょ?」
そう問われた隼人は見おぼえのある顔、シグナルイエローの正体にたまげてしまった。
「えっ、もしかして、三組の……水嶋さん?」
黄色のチュニックに黒いクロプトパンツを履き、髪を肩まで下ろしたこの少女こそ、同じ羅斐田高校に通う女子高生であり、校内でも美少女で評判の学園アイドル・水嶋風音(みずしま かざね)だった。立花の話していた羅斐田高の生徒とは風音のことだったのだ。
「なーんだ。九番って、風音ちゃんの知り合いかよ」
そう言いながら、おもしろくなさそうな表情をしたのは自分と同じぐらいの年齢の若者だった。
こいつがシグナルブルーだと見当をつけた隼人は穴のあいたジーンズに迷彩色のタンクトップを着た、褐色の肌の男をまじまじと見た。
(うへー、チャラいヤツ)
ウェーヴのかかった長めの髪を金色に染め、耳たぶにはシルバーのピアス、首にはこれまたシルバーのチェーンが光っているが、ルックスがいいので、そういったファッションもサマになる。
それにしても、今でこそヒーローを演じても違和感はないが、ひと昔前なら『不良』と呼ばれて、絶対に正義の味方にはなりえなかったタイプだ。
「さっきの連絡で名前聞かなかったの?」
ブルーが問いかけると、風音は不服そうに唇をとがらせた。
「園田さんったら人が悪いわ。今日登録した九番の人がそちらに行きますから、一緒に仕事をしてください、としか教えてくれなかったのよ」
「まあまあ、二人とも。ともかく自己紹介しまひょ」
風音をなだめるように、割って入ってきたのはシグナルレッドならぬオレンジで、彼はニコニコと愛想のいい、丸まっちい笑顔を隼人に向けた。
「わて、大岩俊平(おおいわ しゅんぺい)いいます。登録番号は八番で、この四月に入ったばかりでんねん。じつは大学受験に失敗しましてなぁ、大阪から出てきて今は予備校に通うとるんですが、この世の中、先立つものなしではどうにもあきまへんのや。その点、ここのバイトは割がエエし、時間の都合もつきやすいさかい、ありがたいこって。ま、よろしゅう頼んまっさ」
オレンジ色のTシャツにグレイのサーフパンツがはち切れそうなメタボ男、大岩俊平はいっきにまくし立てたあと豪快に笑った。
そのセリフは「予備校生がバイトなどしている場合か」というツッコミへの回避だとわかると、隼人は「そうですか」と同調し、あいまいに笑うしかなかった。
「じゃ次、オレね」
シグナルブルーは有留登良(うるとら)学園二年の諸星北斗(もろぼし ほくと)と名乗った。
(えっ、オレとタメなの?)
この男も高校生だったなんて。
だが、自由な校風がウリで、芸能人も多数在籍する私立の男子校・有留登良学園に通っていると聞いて納得がいった。
そこの学校なら、北斗のファッションもヘアースタイルもごく普通の生徒。それでは普通じゃないレベルとは──高校生のレベルではない。
「登録ナンバーは004……」
「もう、北斗くんたら。四番って言わないとまた園田さんに怒られるわよ」
風音が北斗をにらむ仕草をしてみせる。ということは、彼女の登録番号が三番だ。
「だってさ、四番なんて超ダサくて、やってられねえよ。004の方が絶対にカッコいいし、なあ?」
北斗は俊平に同意を求め、相手が「そうや、そうや」とうなずくのを見ると、ニヤリと笑った。
感じることはみんな同じなんだと、九番は思った。北斗の言うように、009と呼ばれる方が断然カッコいい。
「電話番号もそれなんやし、わても八番より008の呼び方を支持したいところやけど、真奈はんが……」
「そうよ。あの人に逆らうと、どんな目に遭うか、覚悟した上で名乗るのね」
それにしても何とまあ、個性派ぞろいのチームなんだろう。
あっけに取られていた隼人は俊平にうながされて、あわてて自己紹介をした。
「十文字隼人といいます。水嶋さんと同じく羅斐田高校二年です。登録番号はお聞きになったように九番です。今日の午後の部から、皆さんのチームに加わるよう指示を受けましたので、よろしくお願いします」
「十文字なのに九番とはこれいかに、やな」
関西人のチャチャがすかさず入る。
さっきから隼人を値踏みするようにながめていた北斗が「けっこうイイ男じゃん、オレには負けるけど」と言うと、俊平も改めてこちらを見た。
「せやな。男衆はみんな男前やし、風音はんはベッピンやし、わて肩身狭いわ」
一応は自分へ向けられた讃辞らしきものに対して、軽く頭を下げた隼人に北斗の次なる質問が飛んだ。
「でさ、エナジーカラーは何色? ベルトつけてみたんだろ」
「えっ? あ、赤ですけど」
そのとたん、辺りの空気が変わった。
「赤……ですって?」
「マ、マジかよ」
「こりゃ、ほんまもんのシグナルレッドや」
驚きを隠せない風音と北斗、おどけた様子をみせながらも、俊平も動揺しているのがわかる。
エナジーカラーは赤である──それがそんなに驚くべきことなのかと、さっきから黙ったままの尊を振り返ると、彼は表情を変えずにうなずいた。
「エナジー指数の数値に比例して、カラーのランキングがある。白に黒、赤は金や銀に次いで高い数値の者が持つ色だ」
「それじゃあ海……」
「俺は黒だ」
パンパカパーン。大当たり。
隼人は思わず「やっぱり」と言いそうになるのをこらえ、言葉を飲み込んだ。大当たりじゃない、黒のほかにどの色が彼に似合うというのだ。
それにしても信号に黒はない。彼が参加した交通安全教室はどんなふうに行われたのかが気になる。
尊はさらに続けた。
「金や銀に該当する者は誰もいない。今のところ最高値のおまえが赤なのだから、まあ、当然だな」
「そっか……」
二人の何げない会話はさらに、その場に爆弾を投げつけたような威力があった。
「ええっ! 指数が最高値だって?」
「ほな、海城はんより高いってことでっか?そげな、アホな……」
指数の高さというのは隼人が思っている以上に、彼らにとって重大事項らしく、三人のこちらを見る目がたちまちのうちに変わったため、居心地が悪くなった隼人はもぞもぞと身体を動かした。
その時、ピピーッと機械音が鳴り響き、全員が携帯電話を取り出した。鳴っていたのは尊の電話だった。
相手と二言三言会話した彼は「事務所に戻らなくてはならない。あとでまた来るから、それまで頼む」と言い残すと、足早に立ち去った。
「忙しい人やな。まあ、一人で会社背負っとるわけやし、しゃあないな」
俊平はあきれたような、感心したような声でそう言い、尊を見送った。
「あれ、隼人はんはケータイ持っとらんの?」
「えっ、ここにありますけど」
隼人がポケットから取り出したS社の電話機を見て、
「いやいや、それちゃうって」
俊平は首を横に振ると、風音に自分のところへ電話をかけるよう合図した。
呼び出し音が鳴り出したとたん──さっきの尊の電話と同じ音だ──それはオレンジ色に光り始めた。よく見ると、尊が持っていた黒く光る機種と同じである。
「ドリームクリエイト社製のケータイや。普通のケータイと同じように通話もメールもオッケー、パケット料金も全部会社持ちの、ありがたーい電話やで。ただし、アダルトや出会い系みたいな危ないサイトへのアクセスは禁止やさかい、注意せなあかん」
俊平は電話機にスリスリと頬ずりしてみせた。先立つものがない彼にとっては、すべて無料で使えるというのが、よほど嬉しいらしい。
俊平のあとを受けて、風音と北斗が説明の補足をする。
「そうね。ふだんは一般の携帯電話と同じように使えて、それに特別機能がついてるってところかしら。仲間同士の通信や、事務所からの連絡のときだけは今みたいに、自分のエナジーカラーで光るからわかりやすいの。盗聴されない電波を使っていて、それが光る仕組みに関係あるらしいわ」
「ただし、そのときの着メロが一種類しかないのは難点だよな。誰の電話が鳴ってるのか、光ってるヤツを確認するまでわかりゃしねえ。すっげー不便だぜ」
それでさっきは四人がいっせいに電話を取り出したのか。
「それならワタシ、この前の業務改善案で提出した書類に書いておいたけど」
ちなみに風音は才色兼備でも有名で、全校男子生徒の憧れの的である。まさにヒーロー物や少年マンガに出てくるヒロイン像そのものだ。
「さぁて、いつになったら改善してくれるのか、アテにはならねえな」
「ほんまに……ほな、隼人はんはまだもろうてへんのやな」
貸与されたのはベルトだけである。
タダで使える電話を渡さないなんて、ケチくさい会社だ。ちゃんと給料を払ってくれるのか、怪しくなってきた。
「どうせ今日はオレたちと一緒だから、持たせなくてもいいと思ったんだろうよ」
あっさり言ってのけた北斗はそれから、目をぎらつかせて問い詰めた。
「それより、指数が最高値ってどういうことだ? 本当に海城より上なのか?」
当人がいなくなったとはいえ、年上の先輩をつかまえて呼び捨てとはいい度胸だ。社長の言うところの、礼儀正しくない高校生はこいつだと隼人は確信した。
「海城さんの数値は知りませんけど……」
「だから、おまえはいくつだったんだよ!」
「たしか……三百二十七、だったかな」
再び空気が凍りついてしまった。
「機械の故障じゃないのか。あんな、血圧計のでき損ない。とっくに壊れてンだよ」
不愉快そうな顔をした北斗が毒づくと、
「それはないと思うわ。だって、カラーが赤ってことは指数が高い証拠でしょ」
風音が隼人の肩を持ったせいで、ますます不機嫌になった北斗は先に会場へ行くと言って、とっとと歩き始めた。
「あん、もう、北斗くんてば待ってよ!」
あわててあとを追う風音、俊平は申しわけなさそうな顔をして隼人にささやいた。
「すんまへんな。北斗はんはプライドが高くて……いっつも、海城はんにライバル意識むき出しでんねん。本人の前じゃあ、おとなしゅうしとりますけどな。せやさかい、隼人はんにも突っかかるんですわ」
北斗のエナジー指数は二百二十一で、三百十八の尊と、もう一人の二百六十五に次いで高い数値だったのが、あとから入った隼人に抜かれて四位に転落したのが、そうとうショックのようだ。
「わてなんか、やっと百を超えて採用されたぐらいで……百五十三の風音はんよりも低い数値やし、お二人をライバル視なんて、めっそうもありまへんけど」
「あの、数値の高さがそんなに重要なんですか? とりあえず百を超えればいいと思うんだけど、それじゃあマズイのかな」
公園にとどまっていても仕方がない。
先の二人に続いて歩き出した隼人と俊平はあれこれ会話しながら、保育園までの道のりを進んだ。
「いやいや、百ちょっとじゃあ、とうていあきまへんわ。あんたには無理でっせ言われて、大きな仕事は任されまへん」
それは車の中で尊が語った、指数の低い者が難易度の高い仕事を希望しても却下されるという件のことだ。
「そうです、大きい仕事はそれだけ時給もよろしいからな。昨夜の事件なんて、海城はん以外は誰もこなせまへんけど、まあ、そら当然ですわな」
昨夜の事件とはいったい何だと問うと、俊平は声をひそめた。
「ニュースで聞いとりまへんか?」
「ニュース?」
「パチンコ屋の売り上げを狙うて、人質までとった強盗犯をやっつけたんは海城はんでっせ」
そのとたんに、隼人の脳裏にビルの電光掲示板の文字がよみがえってきた。
──『パチンコ店を狙った連続強盗、犯人を逮捕。人質は無事解放』
「そんな、まさか!」
「そのまさかでんがな。極秘の依頼でチャチャッと片づけたそうや。もちろん、テレビや新聞に名前が出ることはありまへんで。大問題になるさかいに……」
ショックだった。
一般人に素顔を見せてはいけないという尊自身の言葉が思い出された。
隼人の顔色をさぐるように見ていた俊平が弁明する。
「もちろん、警察が手を焼くような事件の依頼はめったにありゃしまへん」
尊以上に指数の高い者、すなわち隼人が同様の仕事にまわされるかもしれないという、相手の心配を考えてのセリフだろう。
「それに、あの社長はんはこっちがやりたがらん仕事を強制的にやらせる、なんてことはしまへんし、拒否したから言うて辞めさせることもありませんから、安心ですよって」
ともかく、尊はそのような大仕事を終えたあと、自分につき合って休む間もなくここまで来て、さっきも何かの用事を頼まれたということになる。
そうとわかると、隼人の胸は再びかすかな痛みをおぼえた。
あの人はオレのために──
前を歩く北斗と風音の後姿の向こうに保育園の建物が見えてきた。
俊平は口頭でベルトの使い方を説明した。
「黄色のボタンがスーツ装着というのはよろしいな? そしたら青のボタンを押します。これはノーマルモードいうて、スーツの働きによって、何の経験がなくても勝手に立ち回りができるようになっとります」
「スーツに任せておけば身体が動いてくれるということですか」
「そうです。せやさかい、わてみたいな運動オンチでも、自由自在にカッコええポーズがとれて、アクションできるっちゅうわけですわ」
それを聞いて隼人は納得した。
バイトを始めるにあたって、研修はおろか何の手ほどきもなしに、ズブの素人(隼人)を送り込んだ立花たちだが、それはベルトの機能にお任せで済むから、という裏づけがあったからだ。
「赤のボタンは?」
「バトルモードです。戦いの能力を上げてくれるらしいんですが、使うたことはありませんから、ようわかりまへん」
またしても不安が隼人の心中をよぎった。
それは命賭けになる業務の場面に──たとえば強盗の逮捕──使われる機能ではないのか。その機能を使うはめになる任務を負わされているのは今、尊だけではないのか。
「セリフはそうやな、北斗はんにリードしてもらえばええでしょう。この仕事はもう何べんも経験してるベテランやから。あとは適当に合わせてやってみればよろしいわ」
その場に集まる人々に顔を見られてはならないため、建物の裏に到着した四人はそれぞれベルトをつけると、スーツを装着した。
隼人のカラーが本当に赤だと確認すると、北斗はおもむろに言い放った。
「そんじゃ、これからはおまえが仕切れよ」
「えっ、そんな……」
北斗の言葉に、風音と俊平も抗議した。
「隼人くんは初心者なのよ。いきなりそんなこと、できるわけないでしょ」
「せや。そんなんムチャクチャや」
「テレビのヒーロー物を見ろよ。レッドが仕切るのが筋だろ。今までブルーのオレが仕切ってたのがおかしいんだよ」
北斗の言うとおりだ。
ブルードラゴンやブラックユニコーンを従えて、敵に名乗りを上げていたのはいつもレッドフェニックスだった。
「でも、いくら何でも」
「こんな仕事もやれないようじゃあ、指数の高さなんてアテにならねえな」
顔を見合わす風音たち、イベント開始の時刻は目前に迫っている。
仲間割れをしている場合ではないと、隼人は決意を固めた。
「わかった。何とかやってみるから、フォローをお願いします」
やがて大勢の園児たちが園庭にてはしゃぐ声と共に、保育士らしき女が交通安全教室の始まりを告げる声が聞こえて、それと同時に三崎がこちらにやって来た。
「シグナルの皆さん、そろそろスタンバイしてください」
そこで三崎はふっとマユをひそめた。
午前中のイベントにはいなかったレッドの存在に目を留めたからで、どうやらひとり増えるという連絡は聞いていなかったらしいが、風音が説明すると、一応は納得した様子で戻って行った。
「さて、ここからはお互いカラーで呼ぶからな。絶対に名前を出すなよ」
北斗、もといブルーがそう言い、ポキポキと指を鳴らした。
「個人情報の漏洩は厳禁でんがな」
オレンジが肩を揺すり、イエローが黙ってうなずく。
張りつめた雰囲気を感じて、レッドは全身に緊張感が高まってくるのをおぼえた。
(オレに務まるのかどうかなんて……やってみなきゃわからないじゃないか)
派手なクラクションの音、わざとらしい子どもの叫び声、女のけたたましい悲鳴──車のモンスターたちによる園児への襲撃は順調に進んでいるらしい。
「ムダだ。誰も助けになんか来ないぞ」
このセリフを合図に、飛び出す手はずになっているのだ。
タイミングを計っていたレッドはここぞとばかりに、会場へとおどり出た。他の三人もあとに続く。
「そこまでだっ!」
ワッと歓声が上がる。
大きな拍手がわいて、観客たちの歓迎ぶりに血が騒いだのは彼の身体の中に眠っていたヒーロー魂が目覚めつつあるのだろうか。
「その手を離しなさい!」
「何だ、おまえらは」
「オレたちは交通ルールを守る正義の使者、交通戦隊シグナルレンジャーだ! これ以上勝手なマネは許さないぞっ」
午前中のイベントにおけるブルーの様子をすべておぼえていたわけではないが、思ったよりもすらすらとセリフが出てくる自分に、レッドは驚きを感じていた。
身構えると、彼と同様に仲間たちも決めのポーズを取る。
園児たちは大喜びで、シグナル──信号は言うまでもなく三色である──より一人多い四色・四人にもかかわらず、信号ではないというブーイングも聞かれない。さっきのふたば保育園での反応とはずいぶんと違っているのがわかった。
「生意気な、やっちまえ!」
敵のボスである、ダンプカーのモンスターが気炎を上げて、仲間たちをけしかける。セダンにワンボックス、宅配の軽トラックなどがいっせいに襲いかかってきた。
(げっ!)
あっという間に乱闘シーンへ突入したはいいが、思うように身体が動かない。
「ガンバレ、レッド!」
子どもたちの声援を受けて、ますます焦るレッドにイエローがささやいた。
「ボタンよ、青のボタン」
押してみると、とたんに身体が軽くなったのを感じて、彼は驚いた。
スーツが自分の身体をリードして動かしている。まるでそれが意思を持ったように、こちらが思うよりも早く殺陣のポーズをとってくれる。
これなら訓練を受けた役者でなくても立ち回りは可能である。華麗なアクションを決めることができて、なかなかいい気分だ。
周りを見る余裕も出てきて、レッドは観客の後方に尊が立っているのを発見した。
(海城さん、戻ってきてくれたんだ)
さらに気持ちが高揚して、彼にいいところを見せてやろうと張り切り出したレッドだが、次の瞬間、軽トラックのモンスターが右脇腹に突進してきて思わずよろめいた。
次の瞬間、
ガクンッ!
激しい衝撃が全身に走り、レッドの身体は前につんのめった。
骨盤でも骨折したのかと思ったが──そんな重傷を負えば、立ってはいられないはずだが──それはほんの一瞬で、どこもケガをした様子はない。
(このー。やってくれたな!)
お返しとばかりに、軽トラックに蹴りを入れた。いや、実際に蹴ったわけではなく、あくまでも殺陣のレベルのつもりだった。
ところが軽トラックの着ぐるみの男は軽々と吹っ飛んでしまった。
(えーっ、ちょっとそれ、オーバーアクションすぎない?)
倒れ込んだ軽トラックはピクリともしない。
周囲に視線を移すと、モンスターのほとんどがすでに降参のポーズを取っていた。
「さあ、これで悪いヤツらは全部やっつけたぜ。みんな、もう安心だ」
(へ? オレのセリフは?)
いつの間にかブルーがちゃっかりと仕切っているのを見て、レッドはあっけにとられてしまった。
レッドに任せると言っておきながらも、今まで自分がやってきた仕事だ。役を取られたようで悔しくなったらしい。
「ちくしょう、おぼえていろよ!」
ラスボス・ダンプの捨てゼリフを合図に、モンスターたちは退却を始めた。
ところが、さっき吹っ飛んだ軽トラックだけが動かない。そこでワゴンとミキサー車が両方の腕を持ってずるずると引きずると、その様子がおもしろいと、子どもたちには大ウケだった。
ここからはお決まりのセリフ、交通ルールについて順番に語ったあと、人々の拍手に送られたシグナルの四人も退場した。
去り際に再び目をやると尊の姿はなく、またどこかへ呼び出されてしまったのかと、レッドは軽い失望感をおぼえた。
さて、建物の裏に戻ると、イエローが興奮した様子で語った。
「レッドが入ると違うわね。ほら、子どもたちの反応よ、こんなに盛り上がったのは初めて。やっぱり赤がヒーローの色なのよね」
この女、頭がいいわりには場の空気が読めないらしい。
レッドの加入が影響したことなど皆、承知しているのだが、
(それを言っちゃ、おしまいだって)
当のレッドは当惑してブルーを見た。彼の不機嫌がピークに達しているのは明らかで、オレンジも同じ思いなのか、おどおどとそちらを見やっている。
「まっ、どーせオレは……」
ブルーがひねくれた口調で何かを言おうとした時、三崎が怒りまくった顔つきをしてこちらにやって来た。
「ちょっとキミたち、ヒドイじゃないか!」
「えっ?」
わけがわからず顔を見合わせる四人に向かって、彼はさらに噛みついた。
「本気で蹴るなんて! ウチの高森が脳震盪を起こしたんだぞ」
高森というのはどうやら、先ほどの軽トラックの着ぐるみに入っていた学生らしく、今はM&Gの控えの場所で手当てを受けているようだった。
「そんな、まさか」
イエローたちの視線がレッドに集まるが、レッド自身、そんなヒドイことをしたおぼえはない。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
何の恨みもないどころか、初対面の高森氏に脳震盪を起こさせるまで蹴りを入れるなんてありえない。
(そんなの、普通に考えればわかるじゃないかよ)
抗議したいのはやまやまだが、言葉が出てこない。
「蹴ったのはキミか」
三崎が憎々しげにレッドをにらんだ。
「いえ、オレは……」
思わず後ずさると、
「そこらで勘弁してください、三崎さん。今、高森を診てきましたが、あの様子なら大丈夫。精密検査の必要もないでしょう」
バツグンのタイミングで背後から声をかけたのは尊だった。
医者の卵の言葉に三崎は不服そうな表情をしたが、尊はかまわず続けた。
「彼は今日初めて業務に就いた初心者なんです。おそらく立ち回りの最中にバトルモードのスイッチが入って、エネルギーコントロールに慣れていないから暴走してしまったんだと思いますが」
高森の軽トラックがぶつかったはずみで、レッドのベルトの赤いボタンが押されてしまったのだ。
あの時感じた衝撃はそのせいで、軽く当てたつもりの蹴りが本当のバトル用のキックになってしまったというわけだ。
M&Gプロダクツの社員だという三崎はこちらの事情にも通じているらしく、レッドと彼のベルトを交互に見た。
「なるほど、キミの言うとおりかもしれないが、通常のエナジー指数で、それも交通安全教室程度の殺陣で、ここまでのパワーが出るとは考えられないけどな」
ノーマルモードを使っていたつもりがバトルモードに入ってしまったとしても、渾身の力を込めて殴ったり蹴ったりしない限り、大した威力はないという意味である。
「通常のエナジー指数じゃないんですよ、こいつは。何たって指数が三百二十七の、期待の新人ですからね」」
ねたみと嘲りの入り混じった声で答えたのはブルーで、それを聞いた三崎は驚きの色を浮かべた。
「しっ、指数が三百二十七だって? それは本当なのか? そうなると海城、キミ以来の数値……」
「そういうことになりますかね」
尊は気乗りしない顔で答えた。レッドの指数をバラされてしまったのが不本意だったらしい。
「そうか、それで赤なのか」
そのあともブツブツとつぶやいていた三崎は「とにかく、これからは気をつけるように」と言い残すと、自分のチームの方へ戻って行った。
「大変だったな。もう装着を解いてもいいだろう」
尊の言葉を聞いて、元の姿に戻ったシグナルチームだが、ヤリ玉に挙げられ、さんざん罵倒された隼人はグッタリしていた。この疲労感、ベルトに体力を奪われたから、だけではない。
「今日の仕事はこれで終了だ。今から事務所に戻って報告書を書いてもいいし、家に帰って、後日の提出でもいいと社長は言っていたがどうする?」
北斗は冷淡な口調で「オレはバイクで来たから、このまま失礼させてもらいます」と言うが早いか、とっととその場を去った。
互いの表情に視線を走らせた風音と俊平も「それじゃあ」と歩き出し、取り残された隼人は小さくため息をついた。
「戻るぞ、乗っていけ」
尊の声が今までになく優しく感じられて、隼人ははじかれたように彼を見た。
「あ……はい」
◇ ◇ ◇
再び黒いクーペの助手席へと乗り込んだ隼人だが、あいかわらず無言のままで車を走らせる尊の態度に、次第に失望を感じていた。
優しく話しかけてくれたのは慰めたつもりなのではと、勝手な解釈をした自分にも腹が立った。
尊自身の仕事は隼人を会場へ連れて行くことと、北斗たちに引き合わせること。
隼人の初仕事での大失敗も、人々の冷たい反応に遭うのも、彼にとってはどうでもいい出来事なのだ、それで当たり前なのだ。
相手に親しみを抱くようになった分、失望感も大きかった。
(ちっくしょう、何がエナジー指数だ、何がバトルモードだ。そんなのもう、知ったこっちゃない! そもそもだ、バトルモードで暴走する可能性があったなんて、そんな重大な問題に気づかないまま、オレを派遣した方が悪いんじゃないか)
すっかり開き直った隼人はこっちからだって話しかけてやるもんかと、唇を「への字」に結び、その様子に気づいているのかいないのか、当の尊はハンドルを握り、フロントガラスをじっと見すえていた。
重苦しい空気を乗せた車はやがてビルの駐車場まで戻ってきた。
これまた無言のまま、二人はエレベーターへと乗り込み、尊が先に立って事務所のドアを開けた。中にいたのは立花だけだった。
「やあ、お疲れさまでした」
コーヒーカップを手にしながら、立花は朝と変わらぬ笑顔で隼人を出迎えた。
「いかがでしたか、隼人くん。三番の彼女に会って驚いたでしょう?」
「はあ、まあ……」
語尾をにごす隼人、尊はといえば立花にならって、コーヒーをいれる準備をしている。
「ここにある報告書に今日の内容を記入して、経費などの精算を終えればひとつの業務が完了しますので、今から書いてもらえますか。もっとも今回は、交通費は空欄にしてください。海城くんの方の書類で、ガソリン代としてつけてもらいますから」
隼人は無言で用紙を受け取り、手近な机の前に座るとボールペンを手にした。
(氏名と登録番号を書いて、業務内容は交通安全教室、場所はひまわり保育園、時間は午後一時から二時、参加人員四名でいいのかな、海城さんも人数に入れるのかな?)
書類をのぞき込んだ立花は「ああ、所要時間はここを出発してから戻った時刻までを書いてくださればいいですよ。それだけの時間、キミを拘束したわけですからね」と、うながしてから向かいの席に座った。
「人数の方はどうなりますか?」
「そうですねぇ」
隼人と立花が会話を続けている間、白いカップを二客持ってきた尊はひとつを隼人の机に置き、自分は別のところに座って、同様に報告書の記入を始めた。
善意の行為に礼を言いそびれた隼人が口をぱくぱくしていると、相手の様子を気づかうふうでもなく、立花は上機嫌で話し続けた。
「ところで、イベントの感想は? 子どもたちは大喜びだったでしょう。ウチとしても大変ありがたいですよ、ようやくレッドヒーローが参入したんですから」
ショー形式のイベントにおいて、これまでのレッドの不在は大きな問題点であったというが、それはそうだろう。
今日の午前と午後における、各保育園での反応の違い──レッドが参加したとたんに盛り上がったのが何よりの証拠だし、それは隼人自身、身を持って感じたことだ。
ふだんは平凡な一高校生、そんな自分の存在をみんなが喜び、感激してくれるのはとても嬉しいはずなのに、今は素直に受け入れる気にはならない。
吹っ飛んだ軽トラックの男、三崎の怒声、北斗の嘲笑、尊の態度……心の奥底に、しこりのように残ってしまった出来事は隼人から労働意欲というものを奪っていた。
「さすがの親会社も、個々の特性であるエナジーカラーの選択だけは……機械で色を変えることはできませんから。レッドは指数の高い隼人くんだけが持つ、いわば……」
「そのせいで人にケガをさせてもかまわない。そんな都合のいい理屈が通るとは思えませんけど」
さっきからうっ積していた感情がここにきて大爆発を起こしたのだ。隼人の反撃に、立花は驚いた様子で彼を見つめた。
「それはどういう意味で」
気弱でおとなしい男がキレると恐い。いったん口火を切ると、あとは怒涛のごとく言葉があふれてきて、隼人はものすごい勢いでまくし立てた。
「パワーのコントロールなんて、いきなりできるはずがない。オレは好きで指数が高いわけじゃないし、そんなの、今朝初めてわかったばかりなのに、何でもかんでもいきなりすぎる……そのせいで、みんなのねたみまで買って、ムチャクチャです!」
「隼人く……」
「本当はバイト禁止って母に言われてるのに、これじゃあ、反対されてまで続ける自信なんか持てません。今日のバイト代はいりませんから、辞めさせてください!」
バンッ!
机の上にベルトをたたきつけると、手をつけていないカップが転がった。
まだ湯気の立っている液体が報告書をこげ茶色に染めて、しまったと思ったが今さら遅い。隼人はそのまま事務所を飛び出した。
誰も追ってくる様子はない。
社長は、尊は……
一瞬の期待と、絶望にも似たあきらめが胸の中をかけ巡る。
隼人は足をひきずるようにして、エレベーターに乗った。
一階に着くと、開いた扉の向こうから驚きの声が上がった。
「うわっ、びっくりした! って、何や、隼人はんやないか」
「あれ、大岩さん」
風音と共に自宅へ帰ったのではないのか。
すると、ぎこちなく空咳をした俊平は弁明を始めた。
「家に戻ってもヒマやし、報告書をさっさとすませた方がええと思い直しましてな」
「そうですか。じゃあ、お先に」
「あっ、ちょっと待ってえな」
ビルの外に出ようとする隼人を呼び止めると、俊平はさぐりを入れてきた。
「さっき、ききそびれたんやけど、海城はんとは以前から知り合いでっか?」
「いいえ、今日が初対面ですけど」
「せやのに一緒に車で来たんでっしゃろ。たいしたもんや。泉泰大医学部の超エリートで、おまけにあれだけの男前。とっつきにくい人、ちゅうか、わてら、話をするのもキンチョーしまくりやのに、海城はんの車に乗るやなんて、恐れ多くてできまへんわ」
「そうかな。普通の車でしたけど」
「いやいや、車ん中は密室、ずっと二人きりでしょ。あの人と何話したらええのか、息が詰まって、わてみたいなおしゃべりでも無口になってしまいまんがな」
「それはまあ……昼メシのときもこれといって話さなかったし」
隼人の言葉に、俊平は目をむいた。
「昼メシって、海城はんと一緒にメシ食うたんですか? どぇえーっ」
大げさに驚く俊平、シグナル三人組は午前のふたば保育園でのイベントを隼人たちが見にきていたとは知らなかったらしい。
「いやぁ、驚いた。あの人がメシ食うとるとこなんて想像がつきまへんわ。背中がパカッと開いて、そこからガソリンみたいなエネルギーを注入しとるって方が説得力あると思いまへんか?」
「ガソリン?」
俊平の想像力のたくましさに、隼人は吹き出しそうになった。
「機械っていうか、ロボットみたいですね」
「せや、ロボットとか、アンドロイドっぽいやろ」
ロボット、アンドロイドといった単語からSFだのファンタジーだのを連想した隼人、
「あ、そうだ。思い出した」
あの時、食事をとった店について、尊が「秘密基地だ」と言った話をすると、目をキラキラさせた俊平はそんな店の存在は初めて聞いた、ならば秘密基地の意味と謎を探ってみせると息巻いた。
「それにしてもや、指数の高い隼人はんなら自分とチームが組める。海城はんはそんな期待を寄せとるのかもしれまへんな。今から仲良うせな思うとるんちゃいますか」
こうしている間にも尊が自分を追いかけてくる気配はない。俊平の言葉は慰めにしかならなかった。
辞めさせてくださいとタンカを切った以上、引き止めてくれるのではなどと期待はしないし、思いとどまるつもりもない。
それなのに、ガッカリしている気持ちに気づいて、隼人はわけもなく焦った。
「……さあ。社長命令に従っただけだと思いますけど」
「そうやろか。わては期待している方に賭けまっせ。ほな、また次の仕事で会いましょ」
軽く手を振ってエレベーターに乗り込む俊平を見送り、隼人はため息をついた。
せっかく仲良くなったのに、もう二度と会わないかもしれない。俊平にも北斗にも──尊にも。
むなしさが薄墨を落としたように、胸の内に広がった。
◇ ◇ ◇
家に帰ると間もなく夕食の時間になった。総二階の一戸建て、日本の平均的サラリーマン家庭である十文字家の食卓にはムニエルにサラダ、スープといった、これまた普通の家庭料理が並んだ。
父はまだ帰宅しておらず、一人っ子の隼人と母親の二人分の皿や茶わんを前に座ると、エプロンをはずした母・香苗が向かいのイスに腰かけた。
「隼人、あなた今日はアルバイトの面接に行くって言ってたわね。面接だけのわりには帰りがずいぶんと遅かったじゃない」
「う、うん。本屋で立ち読みとかしてたし」
立ち読みだけで、そう何時間もかかるはずはない。
バレバレのウソにもかかわらず、香苗は魚の身を箸でほぐしながら、別方向にツッコんできた。
「それで、面接の結果は?」
一瞬息をのんだが、隼人はすげなく答えた。
「……ダメだった」
「そう。それならそれでいいじゃないの。バイトなんてやってる場合じゃないっていう、神様の思し召しよ」
香苗は成績の話をくどくどと始めた。
今のままではそれなりに名のある大学への進学は無理、ましてや地元の有名大学・泉泰大を狙うなんて、厚かましいにもほどがある云々。
泉泰大──その大学名を聞いたとたん、胸に痛みが走った。
(海城さん……社長……みんな……もう会えない)
「ちょっと、隼人ったら聞いてるの? わかってるでしょうね、今の成績じゃ」
ピンポーン。
母の説教は呼び鈴の音にさえぎられた。
「あら、誰かしら? 回覧板は回したばかりだし……そうね、宅配便かもしれないわ」
香苗はスリッパの音をペタペタさせながら面倒くさそうに玄関へと出向き、ドアの向こうの人物に声をかけた。
「はい、どなたですか?」
「夜分に失礼します」
聞き覚えのある声に、隼人はイスをガタリといわせて立ち上がると、あわててそちらにかけ寄った。
「本日、隼人くんの受けられた面接の件に関してお耳に入れたいことがありまして、失礼ながらお宅へ直接うかがいました」
「まあ、それはごていねいに」
いぶかしげな顔をしながらも、母はそつなく受け答えをすると、ドアのロックを解除した。
母子二人の前に現れたのは全身黒ずくめの背の高い男、驚きのあまり固まってしまった隼人にはかまわず、尊は香苗に向かって頭を下げた。
さすがに今は帽子をかぶっておらず、その端正な顔立ちがハッキリと見えて、超美形の青年の登場に母は大きく目を見開いている。
「こんな時間におじゃまして申しわけありません。私は海城尊と申しまして……」
落ち着いた低音で話しながら、尊はポケットからパスケースを取り出すと名刺サイズのカードのようなものを提示したが、それは大学の学生証だった。
自分の身分をはっきり示して、怪しい者ではないと証明するつもりらしいが、その行為はさらに香苗を驚かせる結果になった。
「えっ、泉泰大の、医学部の学生さん?」
中年女性から一転、香苗は乙女と化して尊を見上げた。
(うわっ、母さんが少女マンガキャラになってる)
目はハート形、瞳にはキラキラのお星さま。少なくとも隼人にはそう見えた。
玄関の土間に入ると、奥へ上がるよう、うながされた尊だが、ここでじゅうぶんだからと辞退した彼は自分と隼人がバイト仲間であることを告げ、さらに続けた。
「本来ならば私どもの社長がごあいさつにうかがうべきところですが、何しろ多忙のため時間が取れず、あまり遅くなっては失礼だということで、私が代理として参りました」
尊を通じての、立花の用件というのはこうだ──
隼人はPHカンパニーにとって大変重要な人材であり、ぜひとも当社で働いて欲しい。しかし、本人は学業との両立を考えて悩んでいる様子だ。
「そこで社長からの提案なんですが、私が隼人くん専属の家庭教師を務めさせていただくということで、ご承知願えればと」
「家庭教師ですって?」
「はい。それが私自身の仕事になりますので、こちらには何の負担もありませんから、ご安心ください」
泉泰大の医学部生が家庭教師をしてくれる、それもタダで。
タダという言葉に弱い主婦はイチもニもなく承知し、その間、隼人はすっかり蚊帳の外だった。
「それではご承知していただけたということで、社長へ報告いたします。お時間を取らせて申しわけありませんでした」
香苗にバカていねいなあいさつを済ませると、尊は再び会釈をして表に出ようとした。
「あっ、待って!」
隼人は急いであとを追い、振り返る尊につめ寄った。
「家庭教師だなんて、いったいどういうつもりですか?」
「これは社長命令だ。『将を射んとせば先ず馬を射よ』というやつだな」
バイトを辞める理由として『息子の成績の低下を心配した母親の反対』を挙げた隼人に対し、立花の取った手段は『家庭教師をあつらえて息子の成績を向上させ、母親にバイトの続行を承認させる』ときた。
しかも、その家庭教師は美形の医大生だ。直接当人と対面させれば主婦はイチコロ、作戦は大成功。
あの社長さんにはかなわないと隼人は舌を巻いた。
「社長命令……それで海城さんは仕方なく引き受けたんですね」
今日一日の出来事に加え、最後の最後に尊のいれてくれたコーヒーをこぼしてしまった失敗の後味の悪さも手伝って、隼人はイヤミたらしく言った。
「自分の任務だけでも大変なのに、オレなんかの家庭教師なんて」
「命令を受けたのはたしかだが、最初に提案したのは俺だ。俺自身の意思で決めたわけだから、仕方なくではない」
(オレを辞めさせたくないってこと? どうして海城さんがそこまで……)
明日の朝十時に来ると告げて、尊はその場から立ち去った。
……❸に続く