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あれから一週間が過ぎた。
オレは刑務所に入ることもなく、今日もこうしてバイトに来ている。
いつもの生活、見慣れた光景、それもこれも平穏な日々の証。幸せを噛みしめながらロッカーを開けると、あの時の紙袋がそのままそこにあった。
「返しそびれちゃったな」
美咲は事件のあったその日のうちに店を去り、二度と現れなかった。
池上さんのいないバイトなんて続けたくないと考えたのか、彼を思い出して辛いと思ったのか、どちらにしても肩の荷が下りた気分だった。
「おはようございまーす」
元気よく挨拶すると、チーフやパートさんたちの明るい返事が返ってきた。
「ああ、おはよう」
「品出し、今日は家電のところを頼むわね」
「はーい、わかりました」
届いたばかりの荷物を取りに倉庫へ入ると湿った空気にゾクリとした。奥の事務所で、ではなく、この場所で池上さんは──
──事件当日を回想する。
副店長が刺されたのは本当に事務所の中なのかと言い出したのは九重店長で、黒い服の男は福田であると確信を持って明言したのも彼だった。
「永嶋くん以外に黒い服の男を目撃した者がいなかったのはあくまでも偶然です。男は店の表から堂々と出入りしていたのだから、誰の目にも触れる可能性はあった、そう思いませんか? だとしたら『あれは福田という人ではありませんでした』と証言されれば台無しになってしまうのに、別人をそうと見立てて罪を着せるような、杜撰な計画はふつうなら立てないでしょう」
福田が口にした、インサイダーというあの呪文にも心当たりがあると言い、社内で『DIY創庫』との合併が持ち上がった時に、自社株が買い占められたという話をした。
すなわちインサイダー取引、池上さんは社員として本来ならやってはいけないコンプライアンス違反を犯し、それを福田の一味に嗅ぎつけられたのではないか。証拠、情報網、すべて辻褄が合う。
そこで万引事件の際に顔見知りになった福田が池上さんの恐喝担当として現れた。三ヶ月ぶりの登場は万引ではなく、インサイダー取引が恐喝のネタだったからだ。
「なるほど、その辺りは調査すればすぐにわかりますし、黒い服の男は福田だったというのも譲歩しましょう。しかし、彼が殺人の犯人ではないというのは事実ですよ」
田ノ浦警部補は九重さんを挑発するかのように言ったが、店長が打ち出したのは「池上くんは本当に事務所の中で刺されたのか」という疑問で、この言葉には警部補だけでなく、その場にいた捜査員全員が目の色を変えた。
「それはどういう意味で?」
「たしかに彼は事務所で死んでいましたが、死亡した場所と刺された場所が同じであるとは限らないでしょう? だから事務所内で刺されたのかと訊いたんですよ」
「では、あなたはどうお考えになっているのですか?」
福田が去ったあと、一度外に出たあの時に倉庫内で刺され、事務所に戻ってきたのではないかと店長は発言した。
「たしかに、戻ったときの映像は背中しか映っていませんから、そこまではわかりませんでしたが、可能性はありますね。ではいったい何のために事務所の中へ戻ったのでしょうか? ふつうは助けを求めて、仲間のいる売り場の方へ逃げ出しますよね」
警部補が疑問を投げかけると、九重さんはあっさりと答えた。
「倉庫の出入り口側に犯人がいたから出られなかったとも考えられますが、売り場に出て騒ぎを大きくするよりも、手っ取り早く救急に連絡したかったのではないでしょうか。倉庫の電話は内線のみですが、事務所にある電話は外線に通じるんですよ」
「ケータイは……そうか、机の下に落としていたから、どこにあるのか本人にはわからなかったんだ」
戻って電話をかけようとしているうちに転んで後頭部を打ち昏倒、そのまま亡くなってしまったといったところらしい。
「あと、もう一点よろしいでしょうか? 凶器に使われたカッターですが、あれはかなり切れ味の良い品ですけれど、ダンボール箱を開けるときなどに梱包用テープを切ると、テープの糊がついて、すぐに切れ味が悪くなるんですよ」
「ああ、私も家でハサミを使ったときに同じ状態になりましたよ。人を殺傷するには新品でないと無理、ということですね」
「ええ。ですから、しばらく倉庫で使用されていたカッターが凶器とは思えないんです。つまり、そこに未使用の品が置かれていない限り、あったものを咄嗟に使った、その場で凶器を調達したとは考えにくい」
警部補はポンと膝を打った。
「そうか。我々はこれが以前から倉庫にあったものだとばかり思っていましたが、新しいカッターに文字を入れて持参したというのも有り得るというわけですね」
倉庫で刺されたとなれば、容疑者はオレだけでなく、一気に増える。事件発生時刻に現場に入った可能性のある者、しかもおろしたてのカッターに文字を書き入れることのできる従業員全員が対象になる。
「そこでお願いがあるのですが、今から店内の備品リストをチェックさせてもらえますか? 新しいカッターの出処について調べたいのですが、何なら刑事さんたちにも立ち会ってもらいたいんですけど」
商品の一部を店内の備品用として使う場合、勝手に持ち出すのはもちろん禁止で、使用許可の申請書が必要になる。許可を出す権限があるのは店長以下、副店長とチーフだが、ずっと留守にしていたため、九重さんには最近の状況がわからなかったのだ。
そこで見つかったのは前日の日付が入った申請書で、検印を捺印していたのは池上さん本人だった。自分の命を奪うことになる凶器の許可を出していたとは、なんて皮肉なことか。
それでは申請していたのは誰だったのだろうか? そこに書かれていた名前の主を取り調べた結果、当人が──石橋加奈子が犯行を自供した。
品出しで倉庫へ出向いた折に、ちょうど池上さんと会ったが、直前に訪問を受けた福田のせいで虫の居所が悪く、冷たい態度をとる彼の様子にカッとなり、たまたまおろしたばかりのカッターで犯行に及んだらしい。
彼が事務所に入るところまでは見届けたが、恐くなって店内に戻り、そのまま素知らぬふりを続けていたという。
「……そうでしたか。じつはあの女性、三ヶ月前の万引事件で責任を感じて自殺した、清水という警備員の奥さんだったんですよ。ええ、『主人が死んだ罪滅ぼしだと思って雇え』と強引にねじ込まれましてね。旧姓に戻っているので、店の責任者である私以外は誰も知らないことでした。万引事件についてですか? まあ、概要は御主人から聞いて知っていたでしょうが、池上くんに復讐するとか、そういうつもりがあったのかはわかりません。その辺りは刑事さんたちが調べてください。ただ、復讐というよりは彼に近づいて、あわよくばと思っていたのではないかと。いや、そこらもよくわかりません。私よりも同僚の女性たちの方が詳しいので、そちらに尋ねてみた方がよろしいかと思います」
品出しに続いて前出し。家電コーナーの一角でカセットテープを並べていたオレはふと、赤いビニールに包まれたケースを手にして、まじまじとそれを眺めた。
USBメモリにDVD、MDといった記録媒体に押されて、カセットテープの使用率は年々減少、売り場でも細々と売られている。
片面に記録する他の媒体と違い、この磁気テープにはA面とB面がある。AとBではまったく違う曲、違う音が録音されることがほとんどだ。
二つの面を持っているとはまるで、人間の二面性のようではないか。
快活で人気者、やり手の副店長でありながら、不快な暴言を吐いた挙句、インサイダー取引に手を染めた、表の顔と裏の顔を持っていた池上さんのように……
いや、表とか裏とかではなく、どちらの顔も池上さんだったのだ。人はAとB、二つかそれ以上の顔を持ち合わせている。
とぼけていてノー天気、明るくてお気楽な女子大生、腐女子の松山美咲が見せた、相手を陥れようとする悪魔の顔。
ゲイカップルになるよう、笑顔で勧める厚顔無恥ぶりには閉口するばかりだった上に、店長の気転がなかったら、オレはあのまま警察に連行されていたかもしれないと思うと今でも空恐ろしくなる。
美人で気が利く貞淑な妻と思いきや、水商売をこなし年下の男に色目を使う石橋加奈子が見せた、冷酷な殺人鬼の顔。
取り調べでは、好きだった池上さんに冷たくされたからという動機を語ったらしいが、本当にそうなのだろうか。もしや夫の仇として、ずっとつけ狙っていたのでは?
あの日に限って、新しいカッターを持っていたのが疑惑の理由だけど、最初から殺すつもりならば、わざわざ備品申請などせずとも別の凶器を用意するだろう。けっきょくのところ、彼女の本心は未だに不明だ。
そう、誰もがA面とB面を持っている。そしてあの人も──
「おはよう。今日もよろしく頼むよ」
にこやかに現れたのは九重さんだった。
「あ、おはようございます」
「その後の調子はどう? ちゃんと眠れるようになったかな?」
「は、はい。お蔭さまで」
事件解決の直後、オレが心的外傷を訴えていたのを見て、ずいぶんと心配してくれたらしい。
「言い訳にしかならないが、この一週間は事件のゴタゴタに追われて、ゆっくり話す時間もなかった。済まなかったね」
オレは首を横に振って、
「いえ、オレの方こそ……店長が駆けつけてくれたとき、神様の存在を信じました」
「大袈裟だなぁ」
はにかんだ笑顔が眩しい。
「あのとき『部下を守るのが上司の役目です。私は永嶋くんを信じています』って言ってくれたこと、とても嬉しかったです」
満足そうに頷いたあと、彼は心労をかけたお詫びを兼ねて、今度食事にでも行こうと誘ってきた。
「何がいいかな? 若いんだからやっぱり焼肉あたりがいいか。何でも奢るから、遠慮なく言ってくれよ」
美男子で頭が切れる上に真面目で働き者、性格も穏やかで文句のつけどころがなさそうなのに、九重店長がバツイチになった原因は彼の性的指向にあった。
ゲイという本性を隠しての結婚は長続きしなかったのだと、パートさんたちが昼休みに噂していたのを聞いたおぼえがある。
オレがバイトに入ってすぐの頃で、美咲はもちろん聞いていないが、オバサンの野次馬なノリを嫌っていた彼女のことだから、そんな噂なんてものはまったく耳に入っていなかっただろう。
「奢りって、ホントにいいんですか? だったらこの前、駅の近くに新装オープンしたイタリア料理の店でもオッケー?」
「ああ、もちろんいいとも。美味しいワインが置いてあるところだね、キミの好きな銘柄を頼むといい」
「やった! 嬉しいなぁ」
あのドラマCD、イタリアの地で愛を育む上司と部下の話だったよな。出張しなくたって、イタリアはじゅうぶん味わえるって。
こんなチャンスがいつ訪れるのかと、この三ヶ月間、ずっと待っていたんだ。大学入学以来、それでもオレの彼女でいてくれた人には申し訳ないけれど、ついにお別れだ。
オレは九重さんを見つめ、甘えるような声で訊いた。
「これからプライベートでは店長でも九重さんでもなく、恭一さんって呼んでもいいですか?」
とたんに店長は、恭一さんは顔から首筋までを赤く染め「そ、それは……かまわないが」などと、しどろもどろな返事をした。
「オレのことも瞬でいいですから」
「あ、ああ」
上目遣いでオレを見る恭一さんの視線が熱を帯びている。そんな目で見つめられたら照れ臭いじゃないか。
美咲は見当違いをしていた。カップリングの相手を間違っていたんだ。
オレのB面がほくそ笑んだ。
──了