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二日後。この日も開店前から出勤したオレは持ち場につくと品出しやら前出しをやりながら、久しぶりに顔を出した九重店長に話しかける機会を窺っていた。
ところが、留守の間に仕事は溜まっていた上に、チーフたちが店長の指示を仰ごうと、入れ代わり立ち代わり押しかけるせいか、彼は一箇所に留まる気配すらなかった。
マイッたな。あれじゃあ帰りまでに挨拶もできそうにないやと恨めしげに眺めていたオレの視線に気づいたのか、店長はこちらを見て「やあ」と言わんばかりに微笑んだ。
やった、チャンス到来だ!
勢い込んで駆け寄ろうとするオレの背後に誰かが近づく気配がした。
「よう、ニイちゃんよ」
低く、凄味のある声、背中に刃物を突きつけられたようにゾクリとする。
恐る恐る振り返ると福田が一昨日と同じ、薄汚い黒ずくめの服装で立っていた。
その全身から生臭い臭気が漂っている、そんな不快さのあまり目や鼻が潰れてしまったような錯覚に陥る。
「副店長に取り次いでもらえねえかな。静かなところでお話がしたい、ってね」
「……あ、は、はい」
口元がガクガクと震えているのがわかる。ヤツはオレが最初に万引をチクッた店員とは知らないはずだが、すべてを見透かされているようで、心臓の辺りがズキズキと痛くなってきた。
助けを求めるように前方を見ても、店長はとっくに移動して影も形もない。一人で応対しなくてはならない不安に慄きながら「お、お約束は?」と尋ねると、
「いや、アポなしってやつさ。でもよ」
ヤツはいったん黒いサングラスをはずして強面の顔をニヤリと歪めてみせ、再びサングラスをかけた。
ヤニで黄色く変色した不揃いの歯並びの間から血が滴り落ちている、そんなおぞましい幻覚に襲われる。
「魔法の呪文を教えてやろう。『インサイダー』だ、そう伝えればいい」
「インサイダー、ですね」
オレはおバカなオウムになって、福田の言葉を繰り返した。それから商品を保管する倉庫の、さらに奥にある事務所へと向かった。今の時間なら、池上さんは一人でここにいるはずだ。
ドアをノックし、返答を確認して扉を開ける。デスクでパソコンのキーボードを叩いていた彼はオレの姿を認めると、不愉快そうに眉をひそめた。
「あの、例の男の人が面会に来ています」
それだけで相手がわかったらしい。池上さんはうるさげに「いないと言え」と答えた。
「でも……『インサイダー』って、魔法の呪文を唱えればいいって」
とたんに顔色を変えた彼は面会を承知した。しかも、決して部外者を入れることは許されないこの事務所まで、男を連れてくるよう命令した。
「ここに入れていいんですか?」
「かまわん。ただし、誰にも見られないようにしろ、いいな」
事務所の内部には店内に設置された防犯カメラの映像を映し出すモニターが並んでいるが、ここの入り口も同じようにカメラで見張られている。
福田がこの部屋に入る様子は映像という証拠で残ってしまうのに、そんな大胆な真似をしてもいいのだろうか。
だが、お帰りくださいと言って素直に引き下がるような相手ではないし、そこまでオレが責任を負う筋合いもない。
上司の命令に従った、それでいいんだと自分に言い訳をしつつ、福田を案内がてら戻ると、池上さんはオレの鼻先で扉をピシャリと閉めた。
何て感じの悪い態度だと憤りを覚えたあと、二人がいったい何を話しているのか、好奇心にかられたオレは防犯カメラに映らない位置まで下がり──また立ち聞きしていたのかと因縁をつけられたくないので──中の会話がちょっとくらいは聞けるのではないかと様子を窺った。
インサイダーって、株の取引問題なんかでたまに話題になる言葉だよな。それがどうして呪文なんだろう。
店内放送は倉庫内にいてもじゅうぶん聞こえる。明るく賑やかな音楽と共に「三番レジお願いします」などといった業務連絡も流れてくるが、音量の大きいそれらの音に紛れてしまうのか、事務所内の会話を耳で拾うのは難しい。
薄暗い倉庫の中には搬入された時のまま積み上げられたダンボール箱やら、包装を解く途中で放置された茶色の包みなどが出番を待って佇んでいる。
壁際に立てかけてあった細長い筒状の品がバランスを崩して倒れたが、そのせいで埃が舞い上がったらしく、鼻や喉がムズムズしてきた。
これ以上持ち場を離れるのは無理だ。いつまでもここにいるわけにはいかないとあきらめをつけて、仕方なく店内に戻ったあとは店長の姿を探した。
奥の事務所で繰り広げられている事態を知ったら、彼はどんな顔をするだろうか。チクるみたいでイヤだけど、このまま放置しておくわけにもいかない。
だが、糸の切れた凧はそのまま本社へ飛んで行ってしまったと聞き、ガッカリすると同時にイライラと落ち着かないまま、時間が過ぎていった。
しばらくして黒い人影がスッと横切り、店の出入り口である自動ドアの向こうへと姿を消したのが見えた。
福田だ、ヤツが事務所から出てきて、帰って行くところに違いない。池上さんは? 話はついたのだろうか?
再び好奇心にかられたオレはまたしても持ち場を離れ、倉庫の奥へ向かった。さっきと同様にノックをしたけれど返事がない。
「池上さん、副店長、いますか? 永嶋です、入りますけどいいですか?」
ドアに鍵はかかっていない。思い切ってノブを引き、足を踏み入れる。
換気が悪いらしくムッとする暑さと、鉄のような臭いが漂っていたせいで吐き気を催してきた。
「池上……さん?」
さっきのデスクに彼の姿はなかった。店にとって重要なものがたくさんあるこの部屋の鍵をかけずに、どこかへ出たということは有り得ないのだが──
次の瞬間、オレはとんでもない光景に心臓を鷲掴みされたかのような衝撃を感じた。
デスクの陰に何かがいる。
ワークチェアの足元に、崩れるように倒れているのは池上さんだった。
仰向けになった彼の、その胸に深々と突き刺さった大型のカッターナイフの刃が蛍光灯の光を受けて、鈍い銀色に輝いていた。
◆ ◆ ◆
臨時の取調べ室となった従業員控え室のパイプ椅子に座り、駆けつけた警察関係者たちを前にして、オレはメチャメチャ苛立っていた。この場所にはオレ一人だけが隔離され、美咲たち他の従業員はCSカウンターの前に集められているようだ。
検死の結果、池上さんの直接の死因はカッターナイフで胸部を突かれたためで、出血が少ないのは凶器が刺さったままだったから。即死ではなく、しばらく息があったようで倒れた時に後頭部を打ったらしく、打撲の痕も残っていたそうだ。
財布や免許証などの貴重品はポケットに入っていたので物取りが目的とは考えられなかったが携帯電話はなく、捜査員が探したところ、デスクの下の、かなり奥の位置に落ちていたらしい。
死亡推定時刻は午前十一時前後で、オレが遺体を発見する直前の時刻とも一致しているが、発見の経緯とやらを説明しようとすれば当然ながら、三ヶ月前の万引の件にまでフィードバックしなくてはならない。
加えて一昨日、今日と、この目と耳で見聞きしたこと、知っていることはすべて話し、繰り返し説明を求められても辛抱強く対応したつもりだった。
こんな状況に置かれているだけでもイライラするのに、第一発見者イコール犯人の法則に則っているのか、頭から容疑者扱いされているのは納得がいかなかった。
福田が犯人で決まりじゃないのか。池上さんを脅そうと事務所に乗り込んだはいいが交渉は決裂、ついカッとなって刺して逃げた。凶器のカッターがひっかかるけれど、小学生でもわかる、明快且つわかりやすい展開じゃないか。
さっきから捜査員たちが出たり入ったりしているドアに目をやりながら「だから、福田と名乗っていた男が池上さんを恐喝していたのはたしかなんです。一刻も早く、あいつを探し出してください! 早くしないとどこかへ逃げてしまうかも、今ならまだ間に合うんですよ!」と、咎めるように促したが、
「しかしねぇ……」
県警捜査一課の刑事、田ノ浦警部補と紹介されたオヤジは弱ったといった表情で、もったいぶった言い回しをするだけ。
「何がしかし、なんですか」
「いや、黒い服の男は重要参考人として、ちゃんと行方を追っていますよ。念のために、万引事件に関わった福田なる人物の動きも探る予定ですが……」
念のためにとは、その曖昧な語尾の濁りは何なのだ。
「しかしながら、彼らが同じ人物だという証拠はない」
その言葉を聞いてオレは唖然とした。彼がなぜそんなことを言い出したのか、即座には理解できなかった。
「他の従業員の方全員に確認済みですが、黒い服の男が三ヶ月前の福田という人だと判断できるほど、彼を近くで目撃した方はどなたもいません。背格好は似ているけれど、何しろあの服装にサングラスをかけていましたからね。防犯カメラのハッキリしない映像を見ただけでは、同一人物であると断定できないというわけです」
「どうしてそういう疑問を持つのですか? 現にボクは二度も会って、話しかけられているんですよ!」
「そこが問題なんです。実際に黒い服の男に会ったのは永嶋さんと池上さんだけで、池上さんは亡くなってしまいましたから、あとはあなたの証言のみなんですよ」
一昨日、池上さんは福田と一緒のところを誰にも見られないようにコソコソと会っていたし、さっきもオレにこっそり連れてこいと命じた。
よって、男の姿が他の人たちに目撃されなかったとしても仕方ないが、そのせいで黒い服の男イコール福田だと言い張っているのはオレだけという不利な状況になる。
「つまりですね、黒い服の男はたまたまやってきた客で、池上さんを訪れたのもたまたまだった可能性もあるわけです。福田かもしれないし、別人かもしれない。万が一、福田だとしても、池上さんが彼に恐喝されていたという事実はなかったとも考えられる」
男が事務所に出入りする映像が存在する今日はともかく、一昨日の密会もオレの証言のみで成り立っている不確実な出来事だ。
でっち上げと捉えられても無理はないけれど、でっち上げる理由なんてどこにもないことぐらいわかりそうなものだ。なぜ信じてもらえないのか。たかが学生の証言など、取るに足らないと考えているのだろうか。
このままおとなしく引き下がるつもりなんて毛頭ない。逆切れと思われないよう冷静に、それでいてきっちり反論せねば。
「ボクが嘘をついていると言うんですか!」
どうしてそんなことをする必要が、と言いかけた時、田ノ浦警部補はビニール袋に入った証拠品を目の前に提示してきた。血染めのカッターナイフだった。
「これに見覚えは?」
「……ありますけど」
店内でも売っている品で、品出しの時などにビニールテープやロープの類を切るのに使われているし、それ以外にも用途は多い。こういう店の業務では必需品であり、どこのエリアでも使われる、いわばそこら中にごろごろしているものだ。
「凶器となったこのカッターナイフですけれど、事務所の手前にある倉庫内で使われていたもの、そうですよね?」
言われなくてもわかっている。店の備品として商品と区別するために、柄の部分に黒の油性ペンで「1F 倉庫用」と書いてあるのだから。
「もちろん指紋は拭き取ってありましたが、これで犯人はあらかじめ同じ種類のカッターを用意しておいて池上さんを襲った、ということにはなりませんね」
当然だろう。犯人がたまたま同じカッターを使ったとしても、そんな文字をわざわざ書き入れたりはしないからだ。
「それにしても、かなりよく切れる品のようですね。使うときは注意しないと」
そう、よく切れる。人間の身体を一突きできるほどに。
「黒い服の男を事務所まで案内したと言いましたね? 彼は部屋に入る前に倉庫でカッターを拾った、そんな事実は」
「ありません」
「そうでしょうね。初めて倉庫の中に入った人にカッターの在り処がわかるはずはないし、たまたま拾ったとしても、従業員であるあなたが返してくださいと言うのが筋でしょう。では、どなたが倉庫内のカッターを拾ったのでしょうか?」
「どなたって、それが凶器なんだから、犯人に決まっているでしょう」
「だとすれば」
田ノ浦警部補はそこで声のトーンを変えた。普通のおじさんといった穏やかな声から、いかにも捜査一課の刑事らしい、厳しい口調に変化すると、
「残念ながら犯人はあなたしか有り得ないんですよ、永嶋瞬さん」
「……はあ?」
驚愕の、それも身に覚えのないことを突きつけられたのに、オレの口から出たのは間の抜けたセリフだった。
階段があると思って足を踏み出したら空洞になっていた、そんな感覚。いきなりハマッた落とし穴は相当に深い。
「なぜそういう結論になったのかお教えしましょう。我々は事務所の出入り口を映していた防犯カメラの映像を検証しました。最初に池上さんが一人で事務所に入った。しばらくしてあなたがやってきて、何事かを彼に告げて引き返し、次に黒い服の男を同伴してきて、男だけが中に入った」
このあとしばらくの間、オレは倉庫の中で事務所を見張っていたのだが、その様子は当然ながら映っていない。
見張りをあきらめたオレが持ち場に戻ったあとはどういう状況だったのか。
まず、黒い服の男が出てきたが、それは殺人という重罪を犯したばかりの、いかにも動揺している姿には見えず、むしろ堂々としたものだったという。
そういえば店の外に出て行く後姿も慌てているとか、急いでいる様子はなかった。妙な素振りをして周囲に疑われないようにと、落ち着いて行動したとも捉えられるけれど、本当に犯人じゃなかったとしたら……?
「この次が重要なんですが、数秒後に池上さんが出てきました。何の変わりもなく、もちろん胸にカッターも刺さってはいません。そのあと彼は再び事務所に入り、三度目のあなたの姿が映るまでの間、他の誰一人として映ってはいなかったのですよ」
「そんな……」
「倉庫側に向いたドア以外に事務所へ入る手段はない。池上さんが二度目に入ったあと、事務所には誰も近づいておらず、彼は一人きりだった。あなたが訪問するまではね」
自分がいかに厳しく、困難な状況に置かれているのかをようやく理解したオレは愕然としていた。
刑事たちがオレを容疑者扱いするのも当然だった。福田が立ち去ったあとも池上さんはピンピンしていて、そんな彼の元に最後に近づいたのがオレだったのだから──
「さあ、これらの事実からどんなことが考えられるでしょうか。黒い服の男が犯人でないのは明白ですね」
じわりじわりと包囲網が狭まってゆく。オレは拳を握りしめ、唇を噛んで、その緊張感に耐えていた。
「あるいは池上さんがカッターを拾ってきて、事務所の中で自分の胸を自分で刺した、すなわち自殺した。いかがでしょうか?」
状況としては説明がつくけれど有り得ない。あのズ太い神経の持ち主がチンピラに恐喝されたぐらいで自殺なんて……
しかし、黙っているのはますます心証を悪くする。問われた以上は答えるべきかと、
「自殺ってのは信じられないですけど、福田が犯人じゃないなら」
などと自信なさげに擁護すると、それはあっさりと却下された。
「現場の状態からして、自殺は考えにくいという報告がきています。よって、これはやはり殺人事件であると断定されました」
断定されただと? 最初からそのつもりだったんだろうが。オレは憮然となった。
「そりゃそうでしょうよ。自殺する人がわざわざ指紋を拭き取るはずはないですからね。そういうカマをかけるような問いかけはやめてもらえませんか」
ところが警部補は飄々たるもので「したがって、残るのはあなたが犯人という説だ」などと、手前勝手な推理を披露し始めた。
「黒い服の男が帰ったのを確認したあなたは千載一遇のチャンスとばかりにカッターを隠し持って、再び事務所に入った池上さんを襲い、第一発見者を装って我々に通報する。犯人はさっき出て行った黒い服の男だ、あれは被害者に恨みを持ち、恐喝していた福田だと訴える。以上のようなストーリーが出来上がりますね」
「じょっ、冗談じゃない!」
とうとうブチ切れたオレはテーブルを叩いて立ち上がった。冷静に反論なんて、とうていできる状態ではなくなっていた。
ふざけるなっ、と怒鳴りたかったが、それ以上はどうにか堪えつつ、田ノ浦警部補ののっぺり・おっとりした顔を睨みつける。
だが、相手が怒鳴ったり逆上したりの反応には慣れているのだろう、警部補はしれっとした表情のままだった。
「あなたにとって誤算だったのは、黒い服の男が帰ったあとに被害者が元気な様子でいったん部屋から出てきたこと。この映像がなければ、福田らしき男が第一の容疑者となるのは確実でしたからね」
「だ、だから、オレは池上さんを殺してなんかいない! 犯人じゃありません! どうしてわかってくれないんですか?」
必死の訴えも虚しく、警部補はオレが犯人であるという前提の元に会話を続けた。
「それと、あの場にあったカッターを安易に使ったのはまずかったですね。やはり別の凶器を用意した方が、福田に罪を着せるには好都合だったと思いますけれど」
「言わせておけば……」
「防犯カメラがあるとわかっていた上で組み立てた計画にしては杜撰でしたね。頭のいい神明大生にしてはお粗末だ」
「いいかげんにしてください! オレが池上さんを殺す動機がどこにあるって言うんですか? だいたい……」
その時、控え室のドアをノックする音がして、別の捜査員が「失礼します」と言いながら入ってきたが、彼と一緒にやってきたのは美咲だった。
「こちらの女性が」
捜査員はオレをチラリと見て、意味ありげな顔をしたあと「お話があるそうです」と告げた。
警部補は美咲に目をやると、こちらへどうぞと促し、軽く会釈をした彼女は傍に進み出てから、オレを物凄い目つきで睨んだ。
「刑事さん、犯人はこの永嶋さんに間違いありません」
オレは思わずのけぞった。
「ほう。そう断言する理由は何ですか?」
田ノ浦警部補が興味深げに問うと、
「一昨日、二人のケンカってゆーか……二人がわぁわぁって言い争ってるのを、アタシ、見たんです」
テレビドラマでしか見たことのない刑事という人種に怯え、気後れしているのか、美咲はたどたどしいしゃべり方で、要領を得ない説明を繰り返した。
そんな相手にイラつく様子もなく、田ノ浦氏は「二人とはもちろん、池上さんと永嶋さんですね?」と念を押した。
「はい。あれって、すっごく、とっても険悪なムードでした。アタシ、もう、びっくりしちゃって」
「違う! 言い争いじゃなくて、あれは」
オレが言い訳しようとするのを遮り、警部補は美咲に話を続けるよう言った。
「アタシ、本社の人が来てるからって、池上さんを呼びに行ったんです。そしたら、カー用品コーナーのところで、逆上した永嶋さんが池上さんの首を──」
当初はたどたどしかったものの、その舌は潤滑油でも差したかのように次第に調子づき、彼女は身振り手振りを交えながら熱弁をふるった。
「──絞めるような格好をしていました。こんなふうに」
「なっ……」
あんぐりと口を開けたまま、オレは呆気にとられてしまった。
首を絞めようとしたのは池上さんの方じゃないか、なんでオレが悪役に……
「首を、ですか」
「ええ。アタシを見てやめましたけど、もしかしたらその場で殺すつもりだったのかも。邪魔が入ったからあきらめて、今日にしたんじゃないかしら?」
冗談じゃない、殺すと脅されたのはオレの方だ。
「あのときはカッとなってたけど、冷静になって、もう一度考え直して、他の人に罪をなすりつけるってゆーか、計画殺人に変更したんだと思います」
このバカ女め、勝手なことを言うな、事実を捻じ曲げるのはやめろ!
オレの立場などおかまいなく、その場にいる人々は皆、熱心に美咲の言葉に耳を傾け、納得したように頷いている。
みんな揃って、そこのおバカな女子大生の言うことを信用しているのか、いいかげんにしてくれっ!
怒り心頭といったオレの様子を窺った警部補は「ご不満がありそうですが」と、からかい気味に訊いてきた。
「おおいにあります!」
オレはそちらを睨みつけ、次に大ほら吹き女を睨むと、反撃を開始した。
「店内で福田と会っていたのをオレが目撃したからって、首をしめてきたのも、殺すと脅したのも池上さんの方です。オレは被害者なんですよ!」
「先程は違うとおっしゃっていましたけれど、池上さんと言い争いをしていたのは認めるんですね?」
「えっ……」
騙まし討ちに遭った、そんな思いで絶句する。結果として、反撃はあっという間に終わってしまった。
今さら「言い争いなんてしていません」などと翻すのは無理だ。争ったつもりはないけれど、彼に絡まれていたのは事実だし、嘘をついたところで通用するはずもない。どこかでボロが出ればますます不利になる。
そらみろ、池上を殺す動機があったじゃないか。みんなの視線がそう物語っている。立場も心証も、すべての状況が悪化していく恐ろしさに肌が粟立った。
オレはこのまま、犯人扱いを受けたまま、ブタ箱に放り込まれるのだろうか。そんな、やってもいない罪でどうして……
黙り込んだオレに一瞥をくれると、警部補は「他に何かありますか?」と美咲に証言を続けるよう促し、頷いた彼女はペラペラと得意気にしゃべり続けた。
「その日の朝、ここの場所で彼は、永嶋さんはアタシに言ったんです、池上なんか大キライだって」
「そうじゃない、あの性格が……」
オレのささやかな反論など、美咲の饒舌の前ではまったく歯が立たず、彼女は一方的にまくし立てた。
「池上さんの悪口をたっくさん言いふらしてました。売り上げを誤魔化してたとか、パートさんをババアって呼んだとか。もう、ヒドイ言い方してました」
「被害者がそういう行為をしたり、セクハラ発言をしたりといったことは実際にあったのですか?」
「池上さんは真面目で紳士でした。彼に限って、そんなことは絶対にありません。勝手な言いがかりだと思います」
美咲は確信に満ちた顔で否定した。この小悪党め、許せない。
「バイトに入って一ヶ月のおまえがいったい何を知っていると言うんだ、勝手に決めつけるな!」
やっとのことで言い放ったオレを「ふん」と蔑む美咲、その顔が世にも恐ろしい鬼女に見えて、つい後退る。
オレが自分の思うように動かず、ゲイカップルにもならない上に、お気に入りの池上さんをケナしたとあって、憎さは千倍ぐらいに膨れ上がったのだろう。
いや、当人は本気でオレを犯人だと思い込み、池上さんの仇討ちをしているつもりなのかもしれない。
自分好みの男同士の恋愛をプロデュースするという野望が砕かれた、それどころか片方は殺され、自作ストーリーの登場人物になることは永遠になくなってしまった。
美咲の絶望はそのままオレへの憎悪、怨恨、復讐となった。何が何でもオレを犯人に仕立て上げたい、刑務所へブチ込んでやりたいとばかりに、虚偽と誇大でこり固めた証言をしにやって来たのだ。今の美咲を動かしているのは憎しみという名のエネルギー、人は簡単に残酷で冷酷になれる。
「まあ、被害者の評判については他の方にも確認を取りますから」
そうしなければ公平を欠く。オレたちの話だけではなく、全員から裏づけを取るというのはもっともだ。
パートさんたちがオレを悪く言うはずはないし、チーフたちも庇ってくれると思うけれど、状況は決してよろしくない。
事務所に真犯人がどうやって出入りしたか、その謎が解けない限り、オレの立場は不利なままだ。
すると美咲は警部補に向かって「この人は池上さんを妬んでいたんです。彼が優秀でイケメンで、女の人にもすっごく人気があるからって、ジェラシーしていたんですよ」などと、自信たっぷりに言い切った。
他の方にも確認を取るという言葉が気に入らず、もっともっとオレを追い詰めるために殺人の動機を強調したのだろう。
「田ノ浦さん、彼女の言うことを真に受けないでください」
オレはそう言って牽制するのが精一杯だった。声を出しただけでも疲弊してしまった。
どうして美咲がオレを陥れるような発言をするのか、オレに対して個人的な恨みを持っているかと問われたとしても、他の人々に思い当たるフシはない。
むしろ「とても仲良くしていましたよ」と話すだけだろう。事実、つき合ったらどうかと勧めるパートさんもいたぐらいだから、職場のメンバー全員の目にそう映っていたと思われる。
つまり、これまでの状況において彼女がオレを陥れ、殺人犯に仕立てる動機はどこにも見当たらないことになる。その証言に悪意が込められているなんて誰にも永遠にわからないから、そのまま信用されてしまうのだ。
かといって、彼女がオレに抱いている憎悪の理由、その根底にある腐女子の思考など、とてもこの場で説明しきれるものではないし、話したところでまともに取り合ってはもらえないだろう。
おかしなことを言うヤツだと一笑に付されるのがオチ、美咲だって自分の立場が悪くなるような発言はしない。
腐女子であるとカミングアウトはしないだろうし、ましてや池上さんとのカップリング作戦など、正直に話すはずはない。
「真に受けないように、ですって? どこまで嘘をつく気なの? 池上さんを殺した犯人のくせに、自分のしたことを棚に上げて、ひどいわ、ホントにひどい!」
ついに美咲は泣き落としにかかった。
「アタシたちの優しい副店長を、憧れの人を殺すなんて悪魔よ! 人でなし! 返してよ、ねえ、彼を返してっ!」
この場面はどうみたって加害者を責め立てる被害者の図、オレの立場はどこにもない。泣きながらオレにつかみかかろうとするのを捜査員たちが慌てて止めに入る。迫力満点の演技は主演女優賞モノだ。
美咲がいなければ、彼女の証言がなければ警察のオレへの心証もこんなに悪くはならなかっただろうし、ここまで追い込まれもしなかったのでは。
この女と出会ってしまったのが運の尽きだったのか。悪魔はいったいどっちだ。
「まあまあ、落ち着いてください」
警部補はそう言って美咲をなだめたあと、さらに「彼にはこれから署でじっくりと話を聞きますから」と続けた。
署でじっくりと……任意同行ってやつか。オレにとっては逮捕されたのと同じだ。目の前が真っ暗になり、何も聞こえなくなってきた。奈落の底に落ちていくとは、こんな感じなのかと思った。
このまま副店長殺しの犯人として裁判にかけられ、有罪判決を受けるのだろうか。これって冤罪じゃないか。
たとえ無罪になっても一度は逮捕された身、大学は退学処分となるかも。履歴にも傷がついて、心の傷は一生癒えやしない。オレの人生はここで挫折して終わるのか……
「お取り込み中、失礼します」
そう言うや否や、ドアを開けて飛び込んできたのは九重店長だった。相当急いできたらしく、髪は乱れて、ネクタイまで曲がっている。この店の店長だと名乗ったあと、
「本社に出向いていたので遅くなりました。この度は大変なことになり、皆様にも御足労をおかけして申し訳ありません」
サービス業に従事している者らしく、警部補たちにきっちりと挨拶をしてから、彼はオレの方を向いた。
「店長……」
その顔を見たとたん、涙がどっと溢れてきた。
絶体絶命、四面楚歌の状況において、ようやく一筋の光明を見た思いだった。
……❸に続く